2016年02月23日

『隣の花』第一回:春まだき 隣はなにを乞うひとぞ

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先週から、岸田國士の『隣の花』の読み解きが始まりました。

庭続きの住宅に住む夫婦二組の話なのですが、これがアブナイホンでしてね〜(笑)

よく、隣の芝生は青いと言いますが、うらやむ対象が芝生ならぬ花だった場合、
…花とはつまり、隣家の奥さまということですね
これはなかなかタイトなことになるだろうことは、容易に想像できようというもので。

しかもこれ、きれいにクロス × しているわけです。
目木(めぎ)家のご主人は久慈(くじ)家の奥さまに、
久慈家のご主人は目木家の奥さまに、岡惚れしちゃっているという。

ソコんとこハッキリしてるなら、もう相手を取っ替えちゃえば? という感じで、
まあ、たぶんソコに向かって進んでいくと思われるのですが(結末が書いてない)
ソコは大人のお話なので、ソコに至る経過が、激しく面白いホンなのです。

ってソコ尽くしな文章になっちゃいましたが(笑) つまりそんな、
こそばいいというか落ち着かない、もやもやとした熱が全編に絡みついているわけです。

あー不倫ってこうやって始まるのね、ということをつまびらかにしてみせたホン、
なのだけれど、
これが巧いんですよねえ。

人の心の機微を書かせたら右に出るものがいない岸田國士の、
真骨頂ともいうべき繊細で自然な描写がリアルすぎて、舌を巻きます。

女性陣の感想に、男性なのに岸田國士ってどうしてこんなに女ごころが分かるんでしょ、
というものがありましたが、わずか30分ほどの物語とは思えない完成度の作品です。


このホンの凄いところは、「始まり」から始めていないところなのです。

つまり、二人の男性の人物紹介が済んだら、
次では目木氏が久慈さんの奥さんに、女房と別れる気でいますとかグイグイ迫ってる。
もうなんだか毎日そんな感じなのねという、途中から見せられるわけです。

それは久慈氏も同じで、男性がすでに迷っていないので、不思議なドライ感が漂っていて、
テーマがテーマの割りにジメジメしたトーンにならないのです。

この感じが独特の都会感をかもしだして、不倫の道に転がりだす男女の話というよりは、
人間って馬鹿だねぇ〜みたいな、戯画的な趣の方が立ち上がってくるんですね。

ご主人同士、奥さま同士の性格も真逆に設定されているので、
生身の人間臭さいっぱいでありながら、彼らはまた「記号」でしかないということも、
だんだん見えてくる。。深いホンです、さすがに。

なのでこのお話は、不倫な気分というものと真っ向から向き合わないとダメなのです。

ホンがドライなので、
演出もドロドロ感を避けようとすると、何が書いてあるのかまるで伝わらなくなるんですね。

ただの色恋沙汰の話だと思って勢いで見せようとすると、痛い目に遭う(笑)
案外骨太な、ひとすじ縄ではいかない仕掛けが施されているのです。

丁寧に、しっかり、隣の花を盗みにいく男心を演じる、
当の花ふたつは、摘まれたがっているのかいないのか、真逆の魔性っぷりを演じる。
そうして初めて、このホンの面白みが立ち上がってくるのですね。


この作品が書かれたのは昭和三年。
『顔』の解釈の際にも話題になったことですが、昔の日本人は大人でしたね。

現代人の私たちは、見た目も5歳から10歳ぐらい若くなってますけど、
精神性もそれに準じて、というのは、果たしていいのか悪いのか、
岸田作品に触れるたびにそのことを考えてしまいます。

戦前の日本は、文化的にはヨーロッパの影響を強く受けていました。
心情的にはフランス人に親近感を持っていたように思います。
そういえば、岸田國士もパリ留学した人でした。

それで思い出した、20代の頃にロードショーで、
フランソワ・トリュフォー監督の『隣の女』という映画を観ました。

こちらは、隣に越してきた一家の奥さんが、昔、激しく愛し合った相手で、
逡巡しながら愛が再燃し、破滅のラストシーンを迎えるという筋書きでした。

「愛し合うには辛すぎて、別れてしまうには愛おしすぎる」というセリフが鮮烈な、
大人の愛の物語でしたが、同じシチュエーションを取りながら、
岸田作品のほうにより成熟を感じてしまうのが、ちょっと驚きです。

破滅まっしぐらとは、いかないと思うんだよな、岸田の『隣の花』のほうの男女は。
愛で哲学してないというか、もっと野放図というか。

この物語にある俯瞰性が、そう思わせるのかもしれません。

それはまた、長く世界一の大都市であった江戸から地続きで育まれてきた、
東京という都市の持つ、あっさりと受け入れていくという精神文化の成せるワザ、
と言えそうな気もします。

反面、恋に関しては、フランス人の集中力にはかなわないけど、
どっこい日本人はなかなか陽気に図太いんだぜ、的なしたたかさも感じたり。

フランス風な色恋の展開に東京人の達観が加わるとこうなる、といった成熟度が、
この『隣の花』にはよく描かれています。


本読み教室でこのどこまでに肉薄できるか、
こんなテーマのホンもそうは無いのでね〜、かなりスリリングな期待、大です。

しかし、戯曲の読解というオフィシャルな場でまじめに不倫を追求するなんて、
なんたる健全。(笑)
ええ、もう安心して文字のアバンチュールを楽しめるってものです。

だってここは、チョットないオトナの教室ですから。
今週も、人生の愉しさ、豊かさを、みっちり読み解いていきましョ!







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posted by RYOKO at 00:00| Comment(2) | TrackBack(0) | 『隣の花』 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月19日

『芝浜』第四回:江戸に咲う(わらう)

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『芝浜』は先週で終了、いや〜最後に来て大爆笑の素晴らしいクラスになりました。

この日は、急遽の長い帰郷をしていた受講生のAYAKAちゃんが戻ってきてくれたので、
三喜子さんと麻早さんというベテランお二人に、志ん朝版を通しで読んでもらったのです。

この志ん朝版は、落語の王道中の王道、
華やかで随所に笑いの種が仕掛けられた構成のホンです。

それだけに難しいわけですよ、なにせ読みだけで笑いを取るというのは至難の技なので。

ところがどっこい、
熊五郎の麻早さんが歯切れのいいテンポで小ボケをバンバン飛ばしてきて、
そこへ女房の三喜子さんが、やんわりふんわりキビシイつっこみ!

もう、絶妙のコンビネーションに大爆笑です。

お二人はこの日が「はじめまして」のお手合わせだったんですが、
相性ってあるんですね〜。

芸の手は決してゆるめない三喜子さんの、
とってもやりやすくて乗せられちゃった♪ という、晴れやかな笑顔が印象的でした。

真摯でまじめな大人の女性二人ということが、むしろ男のリアルをまろく包んで、
安心して聴いていられるおとぎ話のような、スカッとした『芝浜』になりました。

最後のサゲで終わったときには、全員が心底大満足の拍手を送ってましたもの。
こんなことも初めてでした〜。

いや〜、お見事!
素晴らしかったです。

三月末のおさらい会では、ぜひこのお二人の『芝浜』をお披露目したいですね。



この日はまた、三喜子さんが「福茶」をおふるいまいくださったのです。
梅干しと昆布をタッパーに入れて、おいしいお茶と節分のお豆もご持参くださり、

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 ←例のこれを、
 みんなで初体験させていただきました。

 熊さんは、あんまり美味かねえな、なんて悪くち言ってたけど、
 おいしかったですヨ〜!
 それが証拠にみんな飲みきりましたもん。(笑)

リブレに戻ってくると、こういう“体験”が出来るのがいいですね。
あったかくってほっこりと、とっても和みました。
三喜子さん、お心遣い本当にうれしかったです、ありがとうございました。



そんなわけで、いよいよ若手も読んでみる、ということになったのですが、
そりゃあこのお二人の後ですものねえ、ましてや馴染みの薄い落語、
壁、かなり高し…

というわけで、
けか子ちゃんとAYAKAちゃんの二人には、立ってやってもらいました。
若い人たちには身体の感覚で掴んでもらったほうが早いのです。

とにかく、女房役のAYAKAちゃんにはなんとしても亭主を仕事に行かせること、
熊五郎のけか子ちゃんには、なんとかして今日も休業にすることをお題に、
本気の死闘に(笑) 集中してもらいました。

自分が思っている以上に熱を出していいんだよ、ということが分かってくると、
AYAKAちゃんもどんどんヒートアップしてきて、
たぶん普段では考えられない、突っ張り!突っ張り!突っ張り!のパワー炸裂に。

もうその必死の形相だけで笑えるんですが、
そこへもってきて、受けるけか子ちゃんのオトボケがまたどんどん上がって、
しまいにゃお腹ボリボリやり出して、
「ぇえ〜?」とか「ぁあ〜?」とか素っトボケる体はまさに、ちっちゃいおじさん出動。

チャーミングなお嬢さんなのに、お腹ボリボリ、、、あんなけか子も初めてみたけど(笑)
あとで訊いたら、なんかそんなことになっちゃったんですよぉ、とか言ってたけど、

もう、その小人さんの夫婦喧嘩みたいな二人の様子がカワイイやら可笑しいやらで、
教室はこれまた大爆笑の渦に。

いやあ、当初はどうなることかと思ったけど、よかったよかった。

熱が上がってくるということは、本気になるということなので、
繋がっていなかった感情もきれいに通るようになって、
気づいたら、若さあふれるフレッシュな新解釈の『芝浜』ができあがっていました。

終わった二人はゼェゼェ言ってましたが(笑) 本当に面白かった。

いやぁ、つくづく、やってよかったです『芝浜』。
こいうふうに〆られたのがまた、もうほんっと頼りになるみんなだわっ、と、
ワタクシ少々感涙なぞしたりもして。

熱ですよ、熱。
コトを動かすのはこの一点です。
これさえあれば、突破できないものはないのです世の中には。(断言したな・笑)

企画を提案してくださった Mumble さん、本当にありがとうございました。
こんなに盛り上がるとは、こんなに身になるとは、ねえ。。
教室のここからに、弾みをつけていただけました。



さて、今週からは岸田國士に戻り、『隣の花』 の解釈に入ります。

これはまた、同じ夫婦ものでも打って変わった世界。
隠微と露骨、ドライと濃密の輪舞(ロンド)、って感じでしょうか(笑)
二組の夫婦のエロチックな駆け引きの物語です。

岸田の中では、個人的には 『顔』 と1、2を争うぐらい好きなホンです。

さてさて、教室はどんなことになるかな〜?
みんなの女っぷり・男っぷりが上がるのは間違いなしだから、震えて待ってテ。
ほほほ。






posted by RYOKO at 08:00| Comment(8) | TrackBack(0) | 新春特別企画 『芝浜』 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月15日

『ロミオとジュリエット』〜秘めやかな誘惑

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仮面舞踏会でジュリエットをみつけたロミオは、ひと目で激しい恋に落ちる。

音楽と踊りと、嬌声と喧騒と。
華やかな賑わしさの隙を突いて、ロミオはジュリエットの手を取る。

そして言うのだ。


ロミオ
もしもこの卑しい手が
聖なる御堂を汚すなら
優しい罪はこれ
僕のくちびるは顔赤らめた巡礼ふたり こうして控え
そっと口づけして 手荒な手の痕を清めよう
ジュリエット 
巡礼さま それではお手がかわいそう
こんなにも礼儀正しく帰依する心を示しているのに
聖者の手は巡礼の手が触れるためにある
手のひらの触れ合いは 巡礼たちのくちづけ

出逢ったふたりは手のひらを合わせ、恋に落ちていく…

いかな「本読み」教室とはいえ、このホンにかかわってこの名シーンを体験しないのは、
シェイクスピアへの冒涜ともいえようもの(笑)
当然、手の動きを入れながらの読みをしてみた。

ここで問題になったのが、手を取ってから手のひらを合わせるまでの流れ。

ロミオはジュリエットの手を取り、突然こんな手荒をした罪を赦してほしいと乞い、
その罪を清めるために、巡礼者が額ずいて聖者の足に接吻するように、
手の甲にキスさせてくださいと懇願する。

ロミオは初めからジュリエットを聖なる愛の殉教者と定め、崇敬の対象とし、
教会で祈る巡礼のように、心のすべてをあなたに預けていると言っているのだ。

その悲壮で純粋な思いに、ジュリエットはほだされる、というより火をつけられる。

見知らぬ仮面の男なのだ、警戒すべき相手であるはずなのに、
ロミオの情熱は戸惑うより先に心を突き崩し、ジュリエットを無垢の塊にしてしまう。

そんなに畏れないで。
手のひらを合わせて心を通わせるのが巡礼の慣わしなら、
わたしのこの手はあなたが触れるためにあるのだから。

ジュリエットが言っているのはそういうこと。
そうして取られた手を解き、手のひらをロミオに向ける、という流れ。

ジュリエットは、取られた手をいったん離さないと手のひらを垂直にできないわけだが、
やってみるとこの離す動作がポイントになることがわかる。

拒否した風にならないように、そっと指をはずしていく。
これはひとつの賭けのようなもの、思いが感じられなければ相手は追ってこれない。
演者の間には密度の高い集中が通い合う。

そして、たなごころを合わせる。
この単純な動作がこんなにドキドキするものとは、みんな初めて知って驚愕していた。

このホンのエクスタシーは、まさにここにある。
バルコニーの場でも、結ばれて別れる夜明けの場でもない。
初めて相手を受け入れた瞬間なのだから。

清らかさとさりげなさを装った、とんでもなくセクシャルな行為。
それが手のひらをぴったりと合わせる動きなのだ。

こういうシーンは段取りにしてはならない。

演じ手同士の自然が絡み合うと、思わぬ化学反応が起きることになる。
自分も相手も次にどう出るのかわからない、スリリングで濃密な時間…

ここにこそ演じる醍醐味がある。
他人と溶け合える瞬間は、そうあるものではないのだから。

まあしかし、演者も人間なので、どんなにセクシャルなシーンでも、
いかんとも相手に反応できない組み合わせがあることも確かではある(笑)

この手のケミストリーは、演者同士の相性がよくなければ起きない。
演劇の奇跡のひとつだったりもするのだから、体験すると生涯忘れられない記憶になる。

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何組もでやってみてわかったのは、ジュリエットは決して受身ではないということだった。
ことほどさように、意外にもジュリエットのほうが明確に誘っているのだ。

初めて会っていきなりのこのスパーク。
あまりにも非現実的な、芝居じみたデフォルメの最たるシーンかと思っていたが、
さにあらず。

ロミオ役に真摯が見えると、そんなにも誠実に情熱的に思いをぶつけてくることに、
自然、you do wrong your hand too much 「かわいそう」 という気持ちになってくるのだ。
この思いの熱さは実際に動作をして初めて感じられたことだ。

可哀想ってのは惚れたってことさ、と言ったのは夏目漱石だったが、
文豪はみんなこういう真理を知っていると思うと震えが来る(笑)

確かに、そう思うと指は勝手に動いてロミオの手をきつく握り返してしまうなどという、
思わぬ反応が起きて自分でも驚くことになったりするのだから。

読解だけでは得られない登場人物の生の気持ちに触れられる喜びは、
こういう中にある。

しかし、手というものは雄弁だ。
実は言葉よりも真実を語るものかもしれない。
この手のひらを合わせる行為は特に、ある意味ではくちづけよりセクシーなものだ。

このへんの話をしていて、手のひらは五感の中でもっとも敏感な部分だからじゃないか、
という意見が出たが、
たとえば洋服を買うときには無意識に手触りをポイントにしているように、
確かめるという行為をもっとも的確かつ熟練ワザで行っているのは手なのだな。

その手でそういう手を感じるのだから。
手のひらをぴったり合わせるというのは。
ものすごく官能的な行為だったのだと、今更ながらにかなり驚いている。

シェイクスピアってやっぱり、とんでもない手練れだ。

『ロミオとジュリエット』を書いたのは、まだ20代の頃だったと思ったが、
こういう生理的な官能性を熟知していたことに驚嘆する。

ロミオは、合わせたジュリエットの手のひらから、指先から、
何を感じただろう。
それがあればこそ、二度もくちづけをねだる挙に出られたのは確かなのだ。

恋は、秘めやかな通い合いであるほどセクシーなものなのかもしれない。
その二人にしかわからない、秘密の華。

これを共有してしまったら、そのひとはもう群集の中の一人ではなくなる。
ふっくりとしたつぼみが、少しずつ、けれど素早くひらかれていって、
気づいたときにはもう、落ちている。

結ばれてはいけない相手なら尚のこと、あっというまに落ちていく。
恋という名の厄介な甘い苦しみに。


  これこそがみなさんにお見せしたかったロイヤルの Dnce of the knights。
  またすぐ消されてしまうかもなので急にアップされた幸運を喜びつつちゃんと観てねと切望。


「もしもこの手が…」
このセリフが始まるまでに、ジュリエットもロミオをみつけていたのだろうか。
それとも、スッと目の前に現れた見知らぬ男に手を取られ、驚いたそのとき、
初めてロミオの目を見たのだろうか。

シェイクスピアの原本にはト書きがない。
書かれているのはセリフだけ。
ジュリエットがどの時点でロミオを認めたのか、この会話がどこでなされたのか、
何も書かれてはいない。

それどころか、直前まで、
ロミオを追い返そうとするティボルトがキャピュレットに叱責される場が続いていて、
うっかりすると見逃すほどに、二人の出逢いのシーンは唐突に始まるのだ。

動きの指定がないということは、いかようにも演出できるということだ。

私なら、周囲の役者の艶なる動きも媚笑の交し合いも、そのまま続けさせる。
けれどロミオがジュリエットの手をとった瞬間、会話は手話のように無言にさせる。
音楽もピタリと止め、しかし楽士たちの楽器を繰る動きは続くのだ。

衣擦れの音しかしない静寂の中、ロミオの恋のささやきが始まる。
深海魚のようにゆらめきさざめく人々を背に、そこは二人だけの世界になる。


初めてのくちづけをロミオから二度も授けられたあと、
ジュリエットは言う。
「お作法どおりのキスね」

原本でのこのセリフは、You kiss by th’ book.

ブックとしか書かれていないのだ。
これはいわゆるエチケット本のことというのが、翻訳の際の定説になっているらしいが、
個人的にはここはそのまま、「本のとおりのキスね」 としたい。

ジュリエットはきっと、恋物語を読んでいたはずだから。
お話のとおりだった・・・そこには、未知のものに触れた驚きと、
思ったとおりのロマンチックを体験できた高揚がある。

ジュリエットは恥じらいながら、震えながら、しかし夢見心地の面差しでこう言ったのだ。


こういう微妙なシーンは、人によって違う流れになるのが面白かった。

若い人は形を整えないと入っていけない人が多い。
熟女陣はむしろ驚くほど素直だったりもして。
残っている恥の分量の違い…とは思ってませんよ(笑)

むしろ、刹那に身を預ける術を知っているかどうかの違いだろう。
今、目の前にいる人に、瞬間、恋する。
まさしくのロミジュリそのものじゃありませんか。

せっかく世界一の恋物語と縁が出来たのだ、
3月が終わるまでこのロマンスに夢中になっていただけたら、
センセイは本望です。(笑)





2016年02月08日

『ロミオとジュリエット』〜恋に落ちる理由(わけ)

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ロミオとジュリエットの運命の出逢いは仮面舞踏会で起きた。
古今の数ある恋物語の中でも、今なおロマンチックの頂点を譲らない名シーンだ。

だいたいこの仮面舞踏会という音と字づらがすでに、秘密めかして華麗すぎる。
わけもなくドキドキする、何かイケナイ期待をつい抱かされてしまう言葉ではないか。

子どもの頃はなぜか 「ぶどうかい」 と発音していたため、
私の舞踏会のイメージは紫、いまだに葡萄酒を連想してしまう。

そんな話を教室でしたら、受講生の一人から、
あたしは武闘会だと思ってたから違うって知ってビックリしました、
とむしろこっちがビックリだよのエピソードが出てきて大笑いになった。


『ロミオとジュリエット』 は数多くの芸術作品のテーマになっているが、
解釈のイメージを広げるのに大いに貢献してくれるのは、バレエの “ロメオとジュリエット” 。

特に、プロコフィエフの音楽にケネス・マクミランが振付けたバージョンが、
非常に演劇的で、素晴らしい。
コスチュームも、見ればどの登場人物かすぐわかる仕掛けになっている。

この舞踏会のシーンで演奏される 「騎士たちの踊り」 は、誰もが必ず耳にしたことのある、
一度聴いたら忘れがたい名曲だ。


というわけで、本日の参考資料。

【まずは音楽とロミオ中心で、ミラノスカラ座版】

※つけていた動画が削除されてしまったためロングバージョンを。(根性・笑)
「騎士たちの踊り」 は04:25からです。

ね、聴いたことあるでしょう。
ロミジュリの中でももっとも有名な曲が、仮面舞踏会のテーマだったわけ。

ロミオとジュリエットが出会った瞬間、わかりましたね?
震えが来るほどドラマチック。
伝統的解釈のバレエには、この瞬間はない。
ケネス・マクミラン、さすがはシェイクスピアの子孫たる英国人、文学的ツボを外さない。

スカラ座版で出色なのは、演劇的にはこのロミオだ。
まずハンサムで非常によろしい。(笑)

実は、文字で読むとロミオはかなりアンニュイ、というか女々しかったので、
教室の女子軍は驚いたのだった。
現状、どこがいいんだこんな男というストップ安から上昇できないキャラなのである。
主役なのに。

ところがこのアンヘル・コレーラ演じるロミオは馬鹿に明るい。
ほとんどアホちゃうかというぐらい陽気。

これが、実はロミオの解釈に大きなヒントをくれる。
もしかして、一幕に居並ぶ苦悩のセリフも、このアホちゃうかなノリで騒がしく喋っていた?
と思えてこないだろうか。
イタリア男だし。

そう、ロミオはハムレットではないのだ。
恋する青年なら、ジェットコースターのように感情が乱高下しても不思議はない。
そのほうが若々しいし、のちの悲劇との明暗もクッキリする。

アンヘルの姿でロミオを読み直してみると、まったく違う世界が現れる。
たぶん、良識の塊のような親友ベンヴォーリオのキャラも違って見えてくる。

ミラノ版が惜しいのは、キャピュレットとパリス、ティボルトの衣装が、
周囲と同化しやすいデザインになっていて男性陣のキャラがいまいちよく見えないところ。


【個々の人物像がよく見えるのは、なんといってもロイヤルバレエ版】

この英国ロイヤルバレエ団の 「騎士たちの踊り」 もあったのだが、
残念ながら著作権の関係で見られなくなってしまった。
ここに掲げるのは冒頭の群舞が終わった直後、ジュリエット登場から。

がしかし、演劇的に見るにはここは非常に参考になる。

なんといってもシニョール・キャピュレットのキャラクターの立ち方が見事。
演じるクリストファー・サウンダースのおかげですっかりキャピュレット贔屓になってしまった。

このロイヤルバレエ団のコスチュームは非常にわかりやすい。
黒銀がキャピュレット、白金がパリス、赤銀がティボルト。
もう見ただけでそれぞれの役が持つ重厚感まで伝わってくる。

芝居パートはそれぞれがキャラ立ちしているため、バレエであることを忘れるほどだ。


このキャピュレット側の男性陣3人と、ジュリエットを演じるタマラ・ロホとのバランスが絶妙。

タマラのジュリエットはこよなく優雅で、はかなく悲劇的。
この娘には初めからシリアスな運命が待ち構えていることを予感させる。

一方で、彼女がまだ恋を知らぬ13歳の少女ということを考えると、
実は吉田都のジュリエットが一番リアルかもしれない。

軽やかで楽しそうな子供っぽいジュリエット。
特筆すべきは、パリス役が彼女にいつもニコニコ向かっているところ。
本当に心からジュリエットが好きなんだなあと思えて面白い。

この汚れなき娘がみずからとてつもない悲劇に転がりだしていくと思うと、
哀れさひとしおという気持ちになる。



【ロミオとジュリエットが恋に落ちたわけ】

先週の講座で大きなテーマとなったのは、ロミオとジュリエットはなぜ恋に落ちたか、
正確には、
ジュリエットは何が決め手となってロミオを選んだのかだ。

ロミオにとって、実はジュリエットは初恋の相手ではない。
ジュリエットに出会う直前まで、
ロミオは同じキャピュレット一族のロザラインに狂っていたのだ。

ロミオのいとこにして親友のベンヴォーリオには、
他の娘を知ればあっという間に忘れる軽い気持ちだと看破されている。
これは、はからずも後の悲劇への予言ともなっているのだが。

このロザラインという娘は、なぜかロミオを徹底的に遠ざけている。

甘い言葉にも流し目にもなびかない鉄の処女、尼僧のように硬く厳しい態度で、
それが一幕でのロミオの憂愁の原因になっている。
ロミオは、そもそもロザライン会いたさにキャピュレット家の仮面舞踏会に乗り込むのだ。

それもこれも彼女がつれないゆえ。
しかし、恋とは、相手からあまりに無視されたらおのずと冷めていくものだ。
そこまでの仕打ちをする人間が自分と合うわけがないと悟るからだ。

が、ロミオの熱は嵩じる一方。
つまりは相手を自分の現実の中で捉えていないのだ。

ロザラインはアイドルのようなもので、
恋する男でいる自分に酔っているだけだということに、ロミオはまだ気づいていない。

ジュリエットの背景もまた複雑だ。
ヴェローナ大公の甥であるパリス伯爵との縁談を抱えているのだ。

パリスという名は美男の代名詞、物語中でもヴェローナの花とまで言われている。
実際、パリスはノーブルでやさしく、何より本心からジュリエットを望んでいる。

良家の娘なら誰もが嫁ぎたい理想の相手であろうに、ジュリエットは乗り気になれない。
母親からは、パリスの目を見ればきっと愛せるようになると婉曲に迫られつつ。

この、「目を見る」 というのが、このホンでは恋の試金石、肝なのだ。

ジュリエットは舞踏会でパリスと踊ってその目を見ても、やはりピンと来なかった。
一方で、仮面をつけて顔が半分わからないようなロミオに、ひと目で恋しているのだ。

この違いはなんなのか、少し考えてもらったら面白い意見が出た。
パリスの目には 「家」 を感じるから好きになれないというものだ。

つまり、パリスにとっては恋だったとしてもジュリエットのほうが、
大人の政治臭を察知してしまってダメというもの。

ジュリエットはまだ初恋も知らないうぶな娘なのだ、
恋をしたい!と思う気持ちが何より優先されるのは当然の年頃だ。

これはいいところを突いている。
パリスに、よしんばおだやかな愛までは感じられても、それは恋の情熱ではないのだ。
ロミオの目からは、その情熱があふれだしていたということ。

ひとことで言うと、これはアニマル・マグネティズムというのです。

動物的な磁力。
磁石のように、どうしようもなく引き付けあう本能のほとばしり。。

キリスト教徒として規律に準ずる生き方をしながら、西洋には裏にこんな言葉があるのだ。

そこには理屈はない。
そういう相手と、二人は出会ってしまった。
それはまさしく、お互いの運命と出くわしてしまったということだ。

と思うと、ロザラインはロミオにはアニマル・マグネティズムを感じなかったのかもしれない。
あるいは、リスクの高い敵方の息子などはなから愛情の対象とは思えない、
ティボルトと同じ筋金入りのキャピュレット原理主義だったのかもしれない。

それとももっと大人で、アニマル・マグネティズムの危険を感じていて、
そんなものに人生を預けるなど愚かしすぎる、とすら思っていたのかもしれない。

ロザラインを、いずれ良いところに嫁ぐ気まんまんの超現実主義者と仮定すると、
ジュリエットの情熱の激しさや意志の強さ、純粋さがよくわかる。

この物語は、たった五日間の話なのだが、
二人は、アニマル・マグネティズムを知った瞬間から大人の階段を駆け上り、
大人以上に成熟して命を完結させたのだ。

まあ平たく言うと、ジュリエットはパリスをセクシーだと思えなかったということだ。

こればかりは蓼食う虫も好きずき、他人の感覚は基準にならない。
とはいえロミオは大変な美形なのだけれど。

恋とは、見も蓋も無い言い方をすればセックスしたいということの言いかえだ。
生き物はみな自分の子孫を残すために生きているのだから、何も忌み嫌う言葉でもない。
明け透けがいいとも、無論思わないが、命の持つ情熱とはそのぐらいナマなものなのだ。

今、なかなか恋愛が出来ない人が増えているというのは、
この生き物としての生々しさを肯定しづらい世の中になっているからかもしれない。

社会人としてはパリスやロザラインのように常に完璧に整った如才なさがベスト、
そのほうが生きやすい。
だが、アニマル・マグネティズムはその対極にあるものだ。

社会人としてのソフィスティケイトを目指すと、本能的なエモーションは邪魔になる。
時代もまた、そうした洗練を現在まで要求し続けてやまない。
ロミオとジュリエットは、素朴な時代の最後の分水嶺に生まれ落ちた恋人同士だったとも、
言えそうに思う。

シェイクスピアが書いたという印象で格調高さばかりを意識して読んでしまいがちだが、
舞台はイタリアなのだ。
『ロミオとジュリエット』は、ラテンの熱いノリで解釈したほうがすんなり通るホンだ。


というわけで、オマケの映像。

ニナガワで鍛えられた本邦当代のロミオ役者が無茶ぶりに応えているものだが、
生瀬勝久と古田新太という小劇場界名うての手練れが目指すところは、
シェイクスピアの神髄を的確に突いていてさすがだ。



続き ■vol.2 ■vol.3

ばかです。(笑)
が、お正月に見た蜷川さんの特集番組での藤原竜也よりこっちのほうが凄味を感じるのは、
この人が本物だという証しですね。

なんだか今回は貼り付けばかりの記事になってしまったけれど、
ビジュアルの説得力っていうのはやっぱり凄いですからねえ、いい時代になったもんです。

はい、扉絵のラファエル前派フランク・ディクシー卿の絵画も含め、
ご紹介したあまたの美しき芸術家の力をお借りして、
今週はさらにヴィヴィッドに、とみお…いやいやロミオとジュリエットの二人に、
会いにいきましょう。

※注:まちがってもジュリエットは古田新太で想像しないように。







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2016年02月02日

『芝浜』 第三回:江戸に想ふ

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『芝浜』 第三回は、亜呂波亭ロコ輔さんにご参加いただきました。

身ごろが赤と黒に分かれたモダンで粋なお召し物に、銀糸の縦縞の白い羽織と、
目の覚めるような装いでご登場くださったので、受講生さんたちも思わず、おお〜…
口数が少なくなったぶん、目がキラッキラと輝やくかがやく。(笑)

ああいう凛と華やいだ空気に触れるというのも、初めての体験だったかもしれませんね。
伝統芸能にたずさわる方は、みなさん独特の品格を放ってらっしゃいます。

受講生さんたちに違う世界を感じてもらおうというロコ輔さんの心意気が、
とても嬉しうございました。

装いというものは、手みやげというか、「情け」なんですねぇ、
あらためて、しかし目からウロコの発見もいただけました。


噺家さんは、なにせ話す人ですから、
活字を読んで伝える朗読とは気の持ちようの根本が違うわけで、
慣れた 『芝浜』 をあらためて字で追う、しかも根掘り葉掘り(笑)
表現の差というものをしきりに感じていらっしゃるようでした。

実際われわれも、ホンを離して立ち稽古に入ると、
体の実感がセリフを支えるようになっていって、
覚えて話すのと持って読むのでは、やっぱり熱もリアルもまるで変わりますよね。

以前、まだリーディングというものがこれほど一般的でなかった頃に、
そのさきがけとなるような企画に参加したことがあるのですが、
そのときの演出も、最終的には少しカラダの表現を入れる形を取られました。

読む嘘というものに我慢できなかったんじゃないかと思います。

セリフが伝えるものは実感がすべて。

と言いきっても過言ではないと私は考えているので、
「読み」 も頭でやっちゃだめだと思っているのです。

この教室もその獲得を目指して立ち上げたんですが、
あのときの演出家も同じことを思われていたのが、今になるとよくわかります。

噺となれば尚のこと。
ロコ輔さんの声からは、私がこれまでに体験したことのないものが届いてきました

ご本人は、文字を追うということで演劇寄りの表現になったので、
噺とはまったく違うとおっしゃっていましたけど、
やっぱり俳優のアプローチからは得られない実感を――私が欲しい実感を(笑)
シャワーのように浴びせていただけたんですよね。

なんというか、凄い包容感という感じで、無理というものがまったく感じられなかった。

受講生のお嬢さま方も、なんだかわかんないけどフワ〜っと、
不思議に包み込まれるようなやさしいあれはいったい何だったんだ?!と、
興奮しきりでした。

実はこのフワ〜っと感を、前日の 『芝浜』 クラスでも私は体験していまして。

今季からプロのナレーターの男性がご参加くださって、その初回だったのですが、
そのかたからも、同じ、得も言えぬ包み込み感をいただけたのです。

思えば、噺家さんもナレーターさんも、肉体によらずに言葉を繰るお仕事ですよね。

声のみで伝える、ということの本質を、
期せずして同じタイミングでお二人の男性からいただけて、
ありがたいことに、第三回はジュエルの輝きの教室になりましたね。

年齢もキャリアも、みな違う人間同士が集まっている講座ですから、
その気になれば、どなたもいくらでもご自分の求めるものに出くわせると思うんです、
この教室をそんな風に使っていただけたら、私は本望ですねぇ。

さっそくロコ輔さんからは、出張高座で教室に来てくださるお申し出をいただけて、
ヤッター!
ジャンルを越えて、どんどん広がっていけば、いいですよね〜豊かですよね〜。


落語の基本は、「言葉に演技が奉仕する」 というものなのだそうです。

落語の説得力は、あくまで声の力によって生まれるもので、
しゃべりだけで時間も時代も場所も状況も、もちろん人物も、表現しないとならないので、
声のコントロールということを演技より重視されているとお話ししてくださいました。

話芸というものは、聴き手に押し付けてはならないものということでしょうか。

それは芝居も同じですけど、演技者の場合はヘタクソでも心情があれば伝わる、
という事もあり、場数を踏むほどかえってそのナマ感の獲得に必死になっていきますが、
落語の場合はまず、ヘタじゃ勤まらない厳しさがあるということかもしれませんね。

技術というものは、やはりおろそかにしてはならないものなのですね。
そうして私が感じているシビアな事実は、センスがなければ技術は身につかない、
ということだったりもします。

センスあっての技術なのです。

でもセンスって身につくんですよ。
俳優の場合は、「実感を再現できる力」 のことだと私は思っているのですね。

そのためには色んな経験をしたほうがいい、痛い経験ほどいい。
そして、その痛みを刻み付けて絶対に忘れないこと。

それがセンスを磨くと、私は思っています。
人としては、ゆえになかなか生き辛いことにもなるわけですが。(笑)
まあこの話は、また別の機会にでも。


ロコ輔さんとお手合わせしていただいて、ひとつ大きな発見をしました。

芝の浜で財布を拾った、あれは夢だったのだと騙された勝五郎に、
心底申し訳ない気持ちになったんですよね。

だから、亭主が 「すまねえ」「悪かった」 と謝るたびに、その言葉は聞きたくなくて、
明るいほうへ明るいほうへ気を引き立ててやりたくなった。

ごめんねって言うのはあたしのほうだよと、泣きたい気持ちになりました。

この女房は、三年間ずっとこの重石を抱えてきたんですよね。
あの日から真実、亭主を愛しぬき、労わり大事にしてきたんだなと、
実感できました。

一つ間違えば、夫をたばかる小ざかしい女になりそうで、
難しい役だなと思っていたのだけど、
小ざかしくてもいいんだと思った、
それをやったあとで、心から、「ごめんね!おまいさん!」 って心が振り絞られれば。

『芝浜』 の二人は、成長していったんですね。
こうして 「人」 になっていった。
それが人々の心を打つんだな。。

『芝浜』 と、ご縁があってよかったなあ。
ロコ輔さんとも、実はお会いしたのは初めてだったんですけど、
お導きがあってよかったです。

教室は、こういう化学反応が起きる場所です。

新しくて心ふるえるような自分との出会いを、今週もみなさん、ひとつでも、
していただけたらいいなと願っています。





posted by RYOKO at 00:00| Comment(5) | TrackBack(0) | 新春特別企画 『芝浜』 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする