2016年02月08日

『ロミオとジュリエット』〜恋に落ちる理由(わけ)

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ロミオとジュリエットの運命の出逢いは仮面舞踏会で起きた。
古今の数ある恋物語の中でも、今なおロマンチックの頂点を譲らない名シーンだ。

だいたいこの仮面舞踏会という音と字づらがすでに、秘密めかして華麗すぎる。
わけもなくドキドキする、何かイケナイ期待をつい抱かされてしまう言葉ではないか。

子どもの頃はなぜか 「ぶどうかい」 と発音していたため、
私の舞踏会のイメージは紫、いまだに葡萄酒を連想してしまう。

そんな話を教室でしたら、受講生の一人から、
あたしは武闘会だと思ってたから違うって知ってビックリしました、
とむしろこっちがビックリだよのエピソードが出てきて大笑いになった。


『ロミオとジュリエット』 は数多くの芸術作品のテーマになっているが、
解釈のイメージを広げるのに大いに貢献してくれるのは、バレエの “ロメオとジュリエット” 。

特に、プロコフィエフの音楽にケネス・マクミランが振付けたバージョンが、
非常に演劇的で、素晴らしい。
コスチュームも、見ればどの登場人物かすぐわかる仕掛けになっている。

この舞踏会のシーンで演奏される 「騎士たちの踊り」 は、誰もが必ず耳にしたことのある、
一度聴いたら忘れがたい名曲だ。


というわけで、本日の参考資料。

【まずは音楽とロミオ中心で、ミラノスカラ座版】

※つけていた動画が削除されてしまったためロングバージョンを。(根性・笑)
「騎士たちの踊り」 は04:25からです。

ね、聴いたことあるでしょう。
ロミジュリの中でももっとも有名な曲が、仮面舞踏会のテーマだったわけ。

ロミオとジュリエットが出会った瞬間、わかりましたね?
震えが来るほどドラマチック。
伝統的解釈のバレエには、この瞬間はない。
ケネス・マクミラン、さすがはシェイクスピアの子孫たる英国人、文学的ツボを外さない。

スカラ座版で出色なのは、演劇的にはこのロミオだ。
まずハンサムで非常によろしい。(笑)

実は、文字で読むとロミオはかなりアンニュイ、というか女々しかったので、
教室の女子軍は驚いたのだった。
現状、どこがいいんだこんな男というストップ安から上昇できないキャラなのである。
主役なのに。

ところがこのアンヘル・コレーラ演じるロミオは馬鹿に明るい。
ほとんどアホちゃうかというぐらい陽気。

これが、実はロミオの解釈に大きなヒントをくれる。
もしかして、一幕に居並ぶ苦悩のセリフも、このアホちゃうかなノリで騒がしく喋っていた?
と思えてこないだろうか。
イタリア男だし。

そう、ロミオはハムレットではないのだ。
恋する青年なら、ジェットコースターのように感情が乱高下しても不思議はない。
そのほうが若々しいし、のちの悲劇との明暗もクッキリする。

アンヘルの姿でロミオを読み直してみると、まったく違う世界が現れる。
たぶん、良識の塊のような親友ベンヴォーリオのキャラも違って見えてくる。

ミラノ版が惜しいのは、キャピュレットとパリス、ティボルトの衣装が、
周囲と同化しやすいデザインになっていて男性陣のキャラがいまいちよく見えないところ。


【個々の人物像がよく見えるのは、なんといってもロイヤルバレエ版】

この英国ロイヤルバレエ団の 「騎士たちの踊り」 もあったのだが、
残念ながら著作権の関係で見られなくなってしまった。
ここに掲げるのは冒頭の群舞が終わった直後、ジュリエット登場から。

がしかし、演劇的に見るにはここは非常に参考になる。

なんといってもシニョール・キャピュレットのキャラクターの立ち方が見事。
演じるクリストファー・サウンダースのおかげですっかりキャピュレット贔屓になってしまった。

このロイヤルバレエ団のコスチュームは非常にわかりやすい。
黒銀がキャピュレット、白金がパリス、赤銀がティボルト。
もう見ただけでそれぞれの役が持つ重厚感まで伝わってくる。

芝居パートはそれぞれがキャラ立ちしているため、バレエであることを忘れるほどだ。


このキャピュレット側の男性陣3人と、ジュリエットを演じるタマラ・ロホとのバランスが絶妙。

タマラのジュリエットはこよなく優雅で、はかなく悲劇的。
この娘には初めからシリアスな運命が待ち構えていることを予感させる。

一方で、彼女がまだ恋を知らぬ13歳の少女ということを考えると、
実は吉田都のジュリエットが一番リアルかもしれない。

軽やかで楽しそうな子供っぽいジュリエット。
特筆すべきは、パリス役が彼女にいつもニコニコ向かっているところ。
本当に心からジュリエットが好きなんだなあと思えて面白い。

この汚れなき娘がみずからとてつもない悲劇に転がりだしていくと思うと、
哀れさひとしおという気持ちになる。



【ロミオとジュリエットが恋に落ちたわけ】

先週の講座で大きなテーマとなったのは、ロミオとジュリエットはなぜ恋に落ちたか、
正確には、
ジュリエットは何が決め手となってロミオを選んだのかだ。

ロミオにとって、実はジュリエットは初恋の相手ではない。
ジュリエットに出会う直前まで、
ロミオは同じキャピュレット一族のロザラインに狂っていたのだ。

ロミオのいとこにして親友のベンヴォーリオには、
他の娘を知ればあっという間に忘れる軽い気持ちだと看破されている。
これは、はからずも後の悲劇への予言ともなっているのだが。

このロザラインという娘は、なぜかロミオを徹底的に遠ざけている。

甘い言葉にも流し目にもなびかない鉄の処女、尼僧のように硬く厳しい態度で、
それが一幕でのロミオの憂愁の原因になっている。
ロミオは、そもそもロザライン会いたさにキャピュレット家の仮面舞踏会に乗り込むのだ。

それもこれも彼女がつれないゆえ。
しかし、恋とは、相手からあまりに無視されたらおのずと冷めていくものだ。
そこまでの仕打ちをする人間が自分と合うわけがないと悟るからだ。

が、ロミオの熱は嵩じる一方。
つまりは相手を自分の現実の中で捉えていないのだ。

ロザラインはアイドルのようなもので、
恋する男でいる自分に酔っているだけだということに、ロミオはまだ気づいていない。

ジュリエットの背景もまた複雑だ。
ヴェローナ大公の甥であるパリス伯爵との縁談を抱えているのだ。

パリスという名は美男の代名詞、物語中でもヴェローナの花とまで言われている。
実際、パリスはノーブルでやさしく、何より本心からジュリエットを望んでいる。

良家の娘なら誰もが嫁ぎたい理想の相手であろうに、ジュリエットは乗り気になれない。
母親からは、パリスの目を見ればきっと愛せるようになると婉曲に迫られつつ。

この、「目を見る」 というのが、このホンでは恋の試金石、肝なのだ。

ジュリエットは舞踏会でパリスと踊ってその目を見ても、やはりピンと来なかった。
一方で、仮面をつけて顔が半分わからないようなロミオに、ひと目で恋しているのだ。

この違いはなんなのか、少し考えてもらったら面白い意見が出た。
パリスの目には 「家」 を感じるから好きになれないというものだ。

つまり、パリスにとっては恋だったとしてもジュリエットのほうが、
大人の政治臭を察知してしまってダメというもの。

ジュリエットはまだ初恋も知らないうぶな娘なのだ、
恋をしたい!と思う気持ちが何より優先されるのは当然の年頃だ。

これはいいところを突いている。
パリスに、よしんばおだやかな愛までは感じられても、それは恋の情熱ではないのだ。
ロミオの目からは、その情熱があふれだしていたということ。

ひとことで言うと、これはアニマル・マグネティズムというのです。

動物的な磁力。
磁石のように、どうしようもなく引き付けあう本能のほとばしり。。

キリスト教徒として規律に準ずる生き方をしながら、西洋には裏にこんな言葉があるのだ。

そこには理屈はない。
そういう相手と、二人は出会ってしまった。
それはまさしく、お互いの運命と出くわしてしまったということだ。

と思うと、ロザラインはロミオにはアニマル・マグネティズムを感じなかったのかもしれない。
あるいは、リスクの高い敵方の息子などはなから愛情の対象とは思えない、
ティボルトと同じ筋金入りのキャピュレット原理主義だったのかもしれない。

それとももっと大人で、アニマル・マグネティズムの危険を感じていて、
そんなものに人生を預けるなど愚かしすぎる、とすら思っていたのかもしれない。

ロザラインを、いずれ良いところに嫁ぐ気まんまんの超現実主義者と仮定すると、
ジュリエットの情熱の激しさや意志の強さ、純粋さがよくわかる。

この物語は、たった五日間の話なのだが、
二人は、アニマル・マグネティズムを知った瞬間から大人の階段を駆け上り、
大人以上に成熟して命を完結させたのだ。

まあ平たく言うと、ジュリエットはパリスをセクシーだと思えなかったということだ。

こればかりは蓼食う虫も好きずき、他人の感覚は基準にならない。
とはいえロミオは大変な美形なのだけれど。

恋とは、見も蓋も無い言い方をすればセックスしたいということの言いかえだ。
生き物はみな自分の子孫を残すために生きているのだから、何も忌み嫌う言葉でもない。
明け透けがいいとも、無論思わないが、命の持つ情熱とはそのぐらいナマなものなのだ。

今、なかなか恋愛が出来ない人が増えているというのは、
この生き物としての生々しさを肯定しづらい世の中になっているからかもしれない。

社会人としてはパリスやロザラインのように常に完璧に整った如才なさがベスト、
そのほうが生きやすい。
だが、アニマル・マグネティズムはその対極にあるものだ。

社会人としてのソフィスティケイトを目指すと、本能的なエモーションは邪魔になる。
時代もまた、そうした洗練を現在まで要求し続けてやまない。
ロミオとジュリエットは、素朴な時代の最後の分水嶺に生まれ落ちた恋人同士だったとも、
言えそうに思う。

シェイクスピアが書いたという印象で格調高さばかりを意識して読んでしまいがちだが、
舞台はイタリアなのだ。
『ロミオとジュリエット』は、ラテンの熱いノリで解釈したほうがすんなり通るホンだ。


というわけで、オマケの映像。

ニナガワで鍛えられた本邦当代のロミオ役者が無茶ぶりに応えているものだが、
生瀬勝久と古田新太という小劇場界名うての手練れが目指すところは、
シェイクスピアの神髄を的確に突いていてさすがだ。



続き ■vol.2 ■vol.3

ばかです。(笑)
が、お正月に見た蜷川さんの特集番組での藤原竜也よりこっちのほうが凄味を感じるのは、
この人が本物だという証しですね。

なんだか今回は貼り付けばかりの記事になってしまったけれど、
ビジュアルの説得力っていうのはやっぱり凄いですからねえ、いい時代になったもんです。

はい、扉絵のラファエル前派フランク・ディクシー卿の絵画も含め、
ご紹介したあまたの美しき芸術家の力をお借りして、
今週はさらにヴィヴィッドに、とみお…いやいやロミオとジュリエットの二人に、
会いにいきましょう。

※注:まちがってもジュリエットは古田新太で想像しないように。








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