2016年08月25日

めぐり逢えて…

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第5回は波乱の週だった。

金曜は予定外の少人数クラスとなったのだが、おかげでじっくり解釈を深められ、
イメージが飛躍的に広がるという思わぬ果報を得た。

土曜も少人数だったが懸案のワルツのエチュードができ、
相手の存在が自分の台詞に実感を吹き込むいいクラスになった。

そして週一番の大所帯である月曜クラスは、なんと台風のおかげで休講に。

金曜土曜の宝石のような輝きだった時間と、それを持てなかった月曜と…
先のモチベーションにどう繋がっていくのか、次回が楽しみである。


土曜のエチュードは山岸もやった。
ホンを持たないそれぞれの手でワルツの形を取る。
それはこのホンの随所にある「・・・・・・」の意味を身体で感じ取ることになる。


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今日が百日目の前の「・・・・・・」 
これは大事な間なのだが、読みではほとんど取れていなかった。

身体を使うと、不器用なジョークに対する小町の反応が少将に幸福感をもたらし、
続く台詞に感慨がこもることになった。
その感慨を受けて、次の小町の「それなのに」後の間にも自然と媚態が入る流れに


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「帰りましょうか」で背後に向かおうとする小町の手を、引き止める動きが出る。
この動きが生まれたことで、手をつないだまま佇む動作までが自然に繋がる。

「中休みの時刻」 これは大事な台詞。
この時点で晩の8時か9時頃か、百日目の今夜はあと数時間しかない。
互いがそれを実感する言葉。
ゆえにこの「・・・・・・」にも独特の空気が生まれる。


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「飽きる。」それは女にとってもっとも聞きたくない言葉。
女は永の月日をかけて、得られた愛の灯をその手で守り続けようとする生き物だから。
男の本音を許せぬ小町ではないが、なればこそこの期に及んでの気怯れはむごい。

「そんならやめて…」で握られていた手を抜いて、ベンチから立ち上がると、
思いのほか強い力でその手をまた摑まれ、先に進めなくされる。
と同時に、「それはできない」という声音の切迫とベンチを立つ動きの鋭さにたじろぎ、
思わずフリーズする。

正面に立った相手のまなざしに捕らえられて、「お気の進まないものを…」が揺れた。
この当惑は、相手の熱情の激しさによって引き出された意外な感情だった。

鋭さや揺らぎといった反応のニュアンスは、相手の身体を通したほうが発見が早い。

そうしてこのエチュードで得られた、最大の謎解きがこのシーン。


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「ええ、何とも思いません」
これはドライな、恋に期待などしていない女の言葉、
女王のように、男たちが自分を獲りにくるのを睥睨している言葉、、

それ以外の解釈が見つからず、しかし何かピンと来ず、首をかしげてきたのだが、
わかったのだ。
「あなたは平気なのか、俺に飽きられても」 というニュアンスが感じられたことで。

飽きる、あなたがわたしに飽きる、飽きられても…
「それでもいい。飽きられても、わたしはずっと、あなたを愛し続けます」

突然、湧いてきたのだったこんな思いが。
これには自分でもビックリしたが。
自然に、このプレイガールめかした言葉の裏側に潜む小町の真実の思いが、
胸に広がったのだ。

ドライではない、むしろ逆。
こうなると、これがこの作品中でもっとも情熱的なせつない台詞となる可能性が出てきた。
愛していると言うより強い、ひとすじの、小町の少将への想いは、
こんな何げない台詞の中に隠れていたのだ。

すると、次の少将の「今すぐ死んでもいい」のニュアンスが変わるかもしれない。
あなたに飽きるぐらいなら、今のあなたを焼き付けて「今すぐ死にたい」に。

そう、このシーン、リードを取るのは徹頭徹尾、少将の方なのだ。
この戯曲は、ところどころでガン!ガン!と階段状にエネルギーのレベルが上がるのだが、
この「死んでもいい」の台詞も、もう一速ギアを入れる大きなポイント。

少将の恋に憑かれた激しさが出れば出るほど、「俗悪だわ!」がぶつけやすくなる。
そのエネルギーがまた、庭木が海のようにざわめき出す帆船の長ゼリへと繋がっていく。

「飽きられてもいい。ずっと愛するから」
この解釈は、この先の「美しい」と言わせまいと抵抗するシーンにも確実に響いていく。

少将をやった受講生が受け取って仕掛けることの出来る人で、予想以上にヴィヴィッドな
化学反応が生まれため、熱量の基準値が出来たことがこのエチュード最大の収穫となった。


金曜クラスで出た解釈 〜イメージの飛躍

鹿鳴館に出てくる男女は、ある意味「陰陽師」で言うところの式神(しきがみ)。
もちろん小町は術師ではないのだからあくまで個人的イメージだが、と話したら、
受講生からも面白い解釈がたくさん飛び出してきた。


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少将の台詞はここから急激に熱を帯びる。

「今僕は、」 「もし今、僕があなたと」 「今僕の頭に」 と、
この短い会話の中に「今」が三度も。
少将はこの突然降りてきたひらめきに昂っていく、まるで神の啓示を受けたかのように。

この流れを金曜の受講生たちは「転生」への意識と捉えていた。
少将自身は夢物語として語り始めるのだが、無意識は運命を悟り、
悟ってしまえばそれは確信へと変化し、あとは坂を転がるようにその一点へと駆け下る。

それはあまりにも急激な変化。
恋をすると人は鋭敏になり、予感が現実になるようなことはよく起こるが、
いよいよその時という今になってこんな転変をすることになろうとは。
人は崖っぷちに立たされたときに運命に出くわす。

この流れを転生と捉えると、以下の謎の会話が違うものに見えてくる。


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受講生の一人が、「小町は正倉院、少将は伊勢神宮」と例えた。

古めきながら千年以上その存在を保たれてきた正倉院と、
式年遷宮で20年ごとに生まれ変わる伊勢神宮。

「私は年をとりますまい」「年をとらないのは僕のほうかも」って。
大爆笑の分かりやすい例えだった。

まあ実際の演技に乗せるには難関だが、少将の演じ手には台詞の一助となるイメージだ。

更にここの解釈はもう一つ、演技的にはこちらのポイントの方が高いかもしれない。
「年をとらない」ということは、今と変わらないということ。
イコール、いつまでも今の気持ちのまま、あなたを愛し続ける、その比喩だと。

こうしてみると、このホンには「永遠に愛する」という主題が通っていることが分かってくる。

関連から、望みが叶えばあなたに飽きる、飽きたくないから「死んで成就させない」
永遠の愛にするために、という解釈も出る。

この説を聞いて思い出したのが、フランス映画の『髪結いの亭主』。
今もって山岸のベスト1で、自分の年代が進むにつれ解釈が変わる名作なのだが、
これはぜひ観ておくといい。
私はこの映画で、究極のエゴは最大の愛の証なのだと知った。
(笑)まあ観れば分かります。

面白い説がもう一つ。

小町は百年、本物を待っている。
この男は本物の少将か、それらしき人が現れると毎年鹿鳴館の幻惑でお試しをしている。
本物の少将は、美しいとは言わない。
それで二人は昇天していける。
ラストシーンの小町のいきなりのドライ感は、本物じゃなかったから、というもの。(笑)

これだと、巧い役者がやればコメディ風味の作品にできるかもしれない。
いや実際、悲恋に向かって突っ走る線と共に、特に前半に笑いの要素をまぶすのは、
上演には欠かせないポイントだ。
それにつけても、人々を酔わせる止まらないロマンスはしっかり作っておかねばなのだが。



□□ READ by Yamagishi □□

百年ごとにめぐり逢う、それを二人の宿命にしたのは少将だ。

「お墓の中で会うのでしょうね」と言っているのだから、
鹿鳴館の時点では、小町はごく普通の人生を送るものだと思っていたのだ。
それを思うと、小町のこの台詞は憐れだ。

百夜通いを課したのは小町、ゆえに関係の主導権は彼女にあるように見える。
詩人も、あたかも老婆の哀れな餌食のように見えるが、実際は逆。
少将の方が小町に、永遠に自分を愛し続けるという呪(しゅ)をかけたのだ。

恋は、より強い呪をかけたものが勝者となる。
けれど少将は分かっているのだろうか、その呪に自身もかかってしまっていることを。
小町がいる限り、少将は転生の宿命から逃れられない。

小町はどうしたら死ねるのだろう。
あのとき少将が、詩人が、「あなたは美しい」と言わなければ、
小町の魂は散華できたのだろうか。

いや、小町は美の化身、この国に息づいてきた「美」そのもの。
美は美として存在しているにも関わらず、決定的に不可欠なものを必要とする。
讃美者の存在だ。
誰かが美しいと認めなければ、そこに有りながら無きものになってしまう、それが美。

だから小町は「美しい」と言ってほしいのだ。
美である以上、それを求めるのもまた宿命なのだ。

美は、自分からは能動できない、ただそこに在るだけ。
讃美を受けとめて、変わらずそこに在るだけ。
まるで植物のように、花のように、美しいという男のため息を受けて揺れるだけ。

それだけでいいはずなのに、小町はその言葉をふさごうとする、
言えばその人が死んでしまうから。

小町は、自分が美しいと言われることより、相手に生きてほしいと願っている。

小町が本当に欲しかった言葉は、思いは、何だったのだろう。
たぶん小町は、それを待ち続けている、百年ごとに。

「あなたを愛している」…なのか…?

男にとって、愛していると言う、それはどれほどの重みを持つものなのだろう。
心から、夢のようにうっとりと、美しいと言われても、
それが何になろう。

「愛している。百年待っていてくれ。必ず帰ってくる」

そう言ってくれたなら、百年なんていくらでも待てる。
愛していると、言ってくれたなら、小町の命も詩人と共に散れたのかもしれない。
けれど男は美しいとしか言ってくれない。

呪を解くひと言、それが「愛している」という言葉なのだろうか、
それともそこから、新たな呪がかかるのだろうか。

男にとって「美しい」という言葉は、「愛している」と同義語なのでしょうか。
女はそれを理解できないということなのでしょうか。

男にとって、美しいと言う、それはどれほどの重みを持つものなのだろう。。

あのの実、あの吸殻で、小町は占っていたのかもしれないと、ふと思った。

相手の気持ちが分からないとき、自分の未来にふるえるとき、女は占いをする。
独りになると御し切れなくなる秘めた吐息の濃さに負けて、思いは指をあやつり出す。

あの人は今どうしているだろう、わたしのことを考えてくれているだろうか、
わたしに気持ちを抱いてくれているだろうか…
あれは何だったの、なぜあんなにやさしく包んでくれたの、あのときあなたは、
何を感じていたの…
囚われて。そのひとに。女は自分の恋を占う。

しかし小町は、百夜通いで少将の気持ちは知っているのだ、胸が痛くなるほどに。
小町は幸せだ。
九十九夜の愛に包まれて、小町は信じている。
やがて来るその時に、身も心も少将と溶け合う、一分の隙なくひとつの魂になる、
ただそのことを、九十九夜、信じて来られのだ。
なんと幸せな。
なんと賢い女だろう。

しかし小町にも分からなかったのだ。
男は必ず果てるものだということを。
果ててのちの余韻には、男は生きられない生き物だということを。

そうして小町は占いはじめる。

いつ来る。
もう一度めぐり逢う、その時は。
あなたは。
いつ来る。
わたしが待っている「それ」は、
いつ来る。
今夜? あした? あさって…?

百年、小町は吸殻で占う。
答えなど出ないと分かっていながら、夜毎、夜毎、吸殻を繰(く)り続ける。
そうして待っている。
そうして、愛している。


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こんなに多くの人間がいるのに、出会える人はなぜ限られているのだろう。
真昼から降り始めた時間を歩み出すと、出会いの重さは若い頃より沁みる。
ひとつひとつに意味があるのだと。
いい人。
わるい人。
自分とて、誰かのわるい人になっているやもしれないのだ。
よしんばいい人として出会えても、瞬時にそれが反転することだって、
呆れるほどしょっちゅう、起こるのだ。

できるなら。
愛し合いたい。
けれどそれはもう、自分を呪にかけていることなのかもしれない。
呪は、しかし、まるきり手離すには甘美すぎる。

この誘惑がなければどれだけラクかと思いながら、待ってしまうのだ、
めぐり逢いを・・・

このホンに向かうと、いらんことばかり考えていけません(笑)









posted by RYOKO at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 小町という女 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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