2016年09月15日

忍ぶ恋にて…

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胸に秘めたまま…決して明かさぬ。

恋の至極は、忍ぶ恋。

なつかしい言葉だ。
個人的な話をすれば、この言葉と初めて出会ったのは高校時代だった。
国語科の先生と交換日記をしていたのだが(笑)その中に書かれていた。
まったく理解できなかった。
だって恋はハッピーエンドを目指すものと思っていたから。

けれど気づけばあの時の先生の年齢を遥かに越え、今、深くうなづく自分になっている。
長い旅をそれなりに、してきたということか。

大人になると、たいせつな思いほど表せなくなる。
表にしたら失われることが、もうわかっているから。

失うぐらいなら、告げない、告げずにずっと想いつづける。
触れてほしいと乞いながら、触れたら終わると戒めて。
忍ぶ恋は、吐息にひりつく大人の恋だ。


百夜目の思いを遂げようとしない少将のエゴが気になって、
というのはただの利己愛の話であるわけがないので腑に落ちず、色々調べているうちに、
この『葉隠』に行き当たった。

なるほどね、確かにこの作家と言えばこの書なのだ。
「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」の一節で有名だが、作家は10代の頃からバイブル
にしていたというのだから、「恋の至極」も26歳ではもう自家薬籠中の熟成物だったろう。
この年齢で忍ぶ恋の概念を物にしていること自体が驚きだが。

天才は40を越えたところで、葉隠の恋についてこう言っている。


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「美しい」と言うとなぜ死ぬのか、これが今更ながらに湧いてきた疑問だったのだ。

美しいってなに? なぜ「愛している」ではいけないの?
小町は愛されてなかったの?
少将とは、エゴを貫いた自己満足の中に死んでいった、そんな軽い男だったの?

これらの疑問が、この『…入門』で一気に氷解しましたね。

…というか、戦後日本とそれ以前の恋愛観のあまりの違いに戦慄する。
『葉隠』が書かれたのは1771年、江戸時代の佐賀藩士によってだ。

“戦後民主主義” しか知らない自分にすれば武士階級ならではのマゾヒズムなのでは?
と思うところだが、この概念を知ると近松や西鶴の書いた庶民の心中事件も理解できる。
日本人にとっての恋とは、かくも激しく密やかな、滅びと隣り合わせの「至極」だったのだ。

封建制度の理不尽な産物であったとしても、デフォルトが忍ぶ恋だったなんて。
高校生の自分がいた世界では、恋はすでに高らかに謳いあげるものになっていた。

敗戦とはこういうことだったのか。。
なんと恐ろしいことだろう、これは民族の人格の破壊だ。
作家が俗悪と斬り捨てるのもむべなる哉の、おそるべき魂の断層の此岸に、我々現代人
は棲んでいたのだ。

今の安寧や自由はこの民主主義がもたらしてくれている。
それはこんなに深い断層の上に存在していたのだという認識を得られたことが、今回この
作家に取り組んだもっとも大きな収穫かもしれない。
まさかこういうものが描かれていたとは。

ゆえに。
やはりこのホンは、狂おしいまでに美しい叙情に満ちた悲恋の物語にしなければならない。
小町は思いを内にたわめて、忍ぶ恋を生きる人なのだから。

少将は、エゴのために死んだのではなかった。
恋に殉じたのだ。
それが生涯ただ一度の奇跡と解ったから、迷うことなく陶酔に身をゆだね、滅びることを、
選んだのだ。

小町は命を懸けるに足る女。
小町の美を讃美し小町の美の中で死ぬ至福を、男たちは選ぶ。

「美しい」とは、恋の奇跡体験のことなのだ。
それは、瞬間にして生命の神秘や生の真理まで悟ってしまえるほどの体験。
その陶酔を知ったらその先のすべてがいらなくなる、本物の恋。

小町はその意味では、美であると共に恋の化身とも言えるのかもしれない。
だから男たちは、決して愛しているとは言わない。
発散の減殺を頑として受け入れず、美しいと嘆じながらおのれが滅ぶほうを選ぶ。

それは究極の愛の告白。
小町は何度その想いを浴びてきたのだろう。

しかし思う。
小町が必死に取り乱しながら引き止めたのは、少将だけだったのだと。
あの誇り高い女が、自ら老醜を晒し己の存在価値を否定してまで失いたくなかったのは、
少将だけだったのだと。

今も美しいのだと地団駄を踏んだ小町が、自分は醜いのだと足を踏み鳴らす。
同じ行為のもとに行われる、これは大転換だ。

自分を貶めてまで少将を逝かせたくなかった。
それが小町の愛の形。
きれいと思ったらきれいと云うさ、少将のあの言葉は、惚れたら惚れたを貫くさということ。
譲らず、命を捧げる、それが少将の愛の形。

このあたりまでくると人物は渾然一体となって、くるくると出たり消えたりを繰り返す。
小町は老婆になり老婆は小町になり、それは少将と詩人にも言える。


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気がつくだろうか、この「僕たち」は、“詩人と少将” でもあるのだ。

男の恋は百日目に果てる。
女の恋は、百一日目から始まるのに。

二つのあいだにあるものは、永遠に橋のかからない嘆きの河なのだろうか。



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おそろしい皺だらけの99歳の乞食婆が、なぜ「美しいひと」に見えるようになったのか。

鹿鳴館での小町は、人々の中で涼やかにたたずみ、3つの独りごとを言う。
噴水の音、輪舞する焔、風にただよう樹の匂い。
小町は「見えない存在」を感じている。

目には見えないけれどそこに確かにあるもの、それは忍ぶ恋の在りようと同じ。
見えない中にこそ真実がある。

「詩人」とは、まさにこの見えない真実を言葉に置き換える者。
小町の心を通して、詩人は世界を構築していく。

同じものを感じ、同じ感動を共有できる感性は、俗悪な鹿鳴館の人々とは根本が違う。
恋人たちの陶酔を理想としている詩人は、たちどころに小町の世界観に魅了されていく。
詩人の心の目が小町という「女の魂」の美しさを見つけたのだ。

小町の美は見た目に捉えられてはならないもの。
それを考えるとこのホンは凄い戯曲だ、俳優の魔法というものを信じているのだから。

小町は、美人女優はやってはならない役なのかもしれない。
容貌の美しさが観客から「見えなかった真実」の発見を奪ってしまう危険を生じるからだ。
美人に化ける魔法を持ったものが必要とされる、稀有な役だ。

ところが、ここにはもう一つ大きな仕掛けがある。
小町の魔法を客席に発動させるのは、実は詩人役のほうなのだ。

老婆が絶世の美女に見えてくるかは、詩人役の力量・陶酔力、恋情にかかっている。

小町の美しさは、詩人と彼を通した観客の目の中に甦る。
そここそがこの戯曲のキモなのだ。
詩人が恋のために死ぬ説得力は、小町に本気で焦がれることで生まれる。

小町を、命を懸ける価値のある、唯一無二の美しき存在に仕上げる。
それが、詩人役に課された最大のミッションだったのだ。

やはり MISHIMA だ。
彼はどこまでも男の力を信じ、男の世界を普遍にまで広げて見せた。

火のように燃え上がる恋を演じきる。
詩人と老婆とこの物語の成否は、そこにかかっている。

この作品の主役は老婆ではない。
詩人だ。




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今月に入ったところで引いた風邪が驚くほど悪化し、三日も高熱が続いたため、
先週の教室は、開講以来はじめての全クラス休講となってしまった。

月末には夏講座は終わっている。
地方公演に向けて稽古が始まる。

今年の夏は、とても短かった気がする。
たのしかった。。

この秋は、どんな彩になるのだろう。
どんな想いを、たわめることになるのだろう。

明日からの二週。
心残りのないように。

豪奢でさびしい、忍ぶ恋に、
よりそいませう。
よりそいませう。









posted by RYOKO at 23:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 小町という女 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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