2015年07月31日

人魚姫も考えてた

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ほ〜。。暑いですねえ。
耐え切れず、こんな涼しげな絵なぞピックアップしてしまいましたが、
昨日は戦後70年によせて企画された朗読公演にいってきました。

敬愛する大先輩の女優さんに久しぶりにお目にかかるため、というのが、
このミッションの目的の半分でもあったのですが、
このかた、純子さんのキャリアは、芝居も人生もなんと私の30年増し!

それなのに、いつお会いしても頭脳はキレキレでお話はとてつもなく面白く、
誇り高いかたなのに、誰もがひと目で魅了されるぐらいお可愛らしい、
ほんものの美人。

この人生で純子さんと出会えて本当によかった〜と嘆息してしまうような、
私の理想の女性、人生の師なのです。

そんなわけで、立っているだけで朦朧としてくるような炎天をさけて、
入った喫茶店でのお喋りは、
も〜天竜川の激流にも負けない勢いで、止まらないとまらない。(笑)

今観たお芝居の話から始まって、この教室のことに知恵を授けてくださったり、
日本の政治や世界情勢、マスコミ論から文化論、女優論、演技論、
恋バナ(笑)、人生の歩き方、などなどなどなど・・・
お茶のおかわりをする暇もない、あっという間の2時間をすごしました。


その中で、あーっと納得させてもらえたのが、国立大学から文系がなくなる話で。

これは、、文明国としては暴挙だろう、というのが私の考えなのですが、
じゃあなぜか、という理由を、明瞭に説明することができずにいたのですね。

でも純子さんが、
「哲学科がなくなるということは、ものを考える人間を絶やすということなのよ」
とおっしゃって、そうだこれだあたしが気分悪くなった理由は、と、
思い当たったのです。

極論すれば、誰かの言いなりになる人間を、国が増やそうとしている、
ということにもなってしまうわけですよね、国立大学なわけですから。

なぜこんな方針を出したのでしょう。

一方では、これからは人間の時代だと言われたりもしていますよね、
もはや労働の大半はロボットやコンピューターが肩代わりできてしまうのだから、
人間でなければできない、個性や感性に根ざした仕事だけが残っていくのだと。

オモテナシ♪ なんてその最たるものなわけで。
矛盾してますよねえ。

なんだか色んなものが、気づかぬうちに極端に走っているように感じられて、
ちょっと、
怖い。
その極端は、たぶん、誰かの「都合がいい」なんでしょうね。

京都大学ではこの方針は受け入れないと決めたそうです。
京大…さすがですねえ。
この国がおかしなことになりそうになるたびに、声を挙げている大学に思えます。
片や、理系の最先端であるIPS細胞を研究しているのも京都大学なわけで。

自分の知性でものを考えることは、反骨精神ともイコールになるんでしょうね。
だから、都合が悪いわけですよ、誰かにとっては。

国立大学に文系がなくなったって、べつに私大で教えればいいじゃないか、
という意見もあるようですが、
私はそうは思いません。

国が税金を使ってこの国の「人間力」を育てることに、意味があると思うからです。

税金の節約などということから発想したのだとすれば、
私たちの国には理念もビジョンもないのだと言っているのと同じことです。
もしも本当に、
ものごとが分かる国民を減らすことを国家が考えているのだとしたら、
右だの左だのの以前に、この国はどうなっちゃうんでしょう。


朗読劇は、ヒロシマの話でした。
素晴らしかった。

命がどれだけ儚いものか、命がどれだけ強靭なものか、
ぐるぐると反芻させながら、
どうにもしようがないことと、どうにかしようのあることについて、
今、自分の頭で考えています。

そう、『人魚姫』だって、ずっとそのことを考え続けていたんだもんね。
(あ、繋がった。笑)














2015年07月24日

語りのカタルシス

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いよいよ夏まっさかりですね。
みずみずしい果物や野菜が、ほ〜っと身体をいやしてくれる季節ですが、
連日の猛々しい暑さにまけずに、お元気にお過ごしでいらっしゃいますか?

このところ、うちの主宰の仕事のお手伝いに狩り出されていました。

ラジオドラマの尺出しという、台本の芝居部分のタイムを計るための仮朗読で、
全6冊のすべてのセリフを独りで読んだのです。

とてもいい江戸のお話でしたよ、
初見でやったので、泣きそうになるのを堪えて鼻声になっちゃったぐらい。(笑)

かかったかなと思ったら♪のあの方と、もしもピアノが♪のあの方の番組です。
本放送については、ちょっとまだ局のほうで情報解禁になっていないようなので、
後日あらためてお知らせしますね。
今日の扉もそのタイトルにゆかりする写真です。


で、この尺出しの朗読が、初めてやったんですけど、すごくおもしろかった!

時代小説から書き起こしている作品なので、語り部分が多いんですが、
この「語り」を読むということには、独特の魔力がありますね。

読んでると、なぜだかハイになってくるんですよ。

なんでしょう、こう、作品のトーンを決定付ける担い手になれるというのかな、
物語のノリをひとりでつむぎだす快感のようなものがある。

自分も知らない素の自身がそこにいて、魂をこめる、
そう、歌うことに近い感じがするのです。

こういう感覚は、役を演じることとは明らかに違います。

そうして語りの場合は、自然と感情のニュアンスを最小限に抑えたくなるので、
逆に、いま伝えられなかった!という実感が即座に自分にはね返ってきて、
理性でコントロールすることが楽しくなってくるんです。

そこにはまた、抑えようとしてもどうしても出てしまう自分の感情があって、
そのひそやかな、ほっそりとかそけき想いに出くわすことが、
楽しいんですね、
ああ、自分はこういうことを感じ入る人間だったのかと。

この滲み出てくる感覚との未知の出会いに、えもいえぬカタルシスがあるのです。

老若男女の登場人物すべての役を演じながら、合い間あいまに、
役とは違った性質を持つ「語り」にもどらなければならなかったので、
役になることとの違いが、よけいに強く感じられたんだと思うんですけどね。

語るということにはこういう悦びがあったのかと、驚きました。

これまでも官公庁関係の素材のナレーションなどをやったことはあるんですが、
物語の語りというものは、明らかに身体に残るものが違います。

このごろ町に増えてきた朗読サークルの人気のひみつはこの快感にあるのか〜と、
初めて分かりました。

これはちょっと、かなり健康によいジャンルなのではと思ってしまいましたヨ。


みると、YouTubeなどでもずいぶんたくさん朗読がアップされているんですね。
んー、でも、やっぱり、自分に酔っている人が多いかなー。

そう、酔っちゃうんですよね〜、語るってこのとおり気持ちいいから。
特に時代ものには独特の陶酔感があります。

今回やってみて一番苦心したのも、浮つかずにちゃんと伝える、
けれど物語ですから、叙情性はあとを引くように残さなければならない、
というところで。

これを両立させるのは、簡単なようでいてなかなか取り付かせてはもらえません。
ほんのチョットの違いなんですけど、そのチョットに読み手のすべてが現れる、
という・・・きゃーこわいですネー。

そうそう、その昔には、
メニューを読み上げたら居合わせたお客さんがみんな泣いちゃったという、
オーソンウェルズのレストランの伝説なんてものもありましたね。

反対に、ふつうに読んでるのになぜだか笑っちゃうというのもスゴイですよね。
声は生ものなので、正直で、おもしろいです。

今回の本読み教室では、語りの極意にも迫っていけたらと思っています。

未知の自分との出会いに、きっと驚くことになると思いますヨ。
まだまだご応募、お待ちしております。
















2015年07月10日

人生に寄り添う芝居

創作側も観客も、すべての方にぜひ読んでいただきたい文章があります。

昨年の夏、ウォールストリートジャーナルに寄稿された、ニューヨーク大学の
クラス博士のエッセイです。
私はこれを読むたびに、得もいわれぬ、震えるような気持ちになるのです。

。。。



Shakespeare as a Life Coach(人生のコーチとしてのシェークスピア)
By  PERRI  KLASS  2014年 8月 11日 19:15 

 7月の末、ニューヨークのセントラルパークで野外上演された「リア王」を見
て、私は母のことを考えた。劇には母親役は出てこないし、どの役にも母親がい
る設定ではないのに。今の私にとって、「リア王」は今のところ、人が年を取り、
精神力も体力も世俗的な権力も失っていく物語ではない。

 今の私にとって、「リア王」は年老いた親の面倒を見る物語、いや、きちんと
面倒を見られない物語である。そしてその年老いた親が記憶を失っていくのを目
の当たりにする物語、親が年を年老いていくのを目の当たりにしながら、中年に
なった子どもたちがどんなふうに張り合い、どのような関係を築くかを見せてく
れる物語なのだ。

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William Shakespeare (detail)=@by John Taylor


 もちろん、俳優は年を取ると、若いときとは別の役を演じるようになる。しか
し、私たち観客も同じように年を取る。最後に「ロミオとジュリエット」を見た
とき、私は自分が親たちに自分を重ね合わせていたことに気付いて驚いた。私に
とって、この物語は若者の恋愛物話ではない。物事への対応がまずかったばかり
に、愛する子どもを失う親の話なのだ(愛が永遠に続くと信じている恋人たちよ、
この物語の結末はどうだろうか!)。

 私が担当する大学のクラスにハムレットのような生徒がいたらどうなるか、考
えたこともある。聡明で悩み深く、神経質なところがある学生で、将来、素晴ら
しいことを成し遂げてほしいと期待しているが、自分もしくは他人を傷つけるの
ではないかという不安もぬぐえないのだ。


 私の母は数カ月前に亡くなった。86歳だった。私は母を恋しく思う日々を過ご
している。母はパブリック・シアターがセントラルパークで上演する無料のシェ
ークスピア劇を愛していた。早起きをして、チケットを手に入れようと高齢者用
の列に並んだものだ。しかし、2010年にアル・パチーノが出演する「ベニスの商
人」がかかったとき、母は猛暑の中、朝から5時間も並んだ挙句、チケットを手に
入れることができなかった。私は母に、もうそんなことはしないでと言った。

 子どものころ、両親は毎夏、セントラルパークにシェークスピアの劇を見に連
れて行ってくれた。今度は母のためにチケットをとるのが私の仕事になった。毎
日、インターネット上で行われるチケットの抽選会に参加し、障害者向けに特別
な解説がある公演のチケットを申し込んだ。昨年の夏、視覚障害の認定を受けて
いた母はこれまで見たこともないほど行儀のよい盲導犬たちに囲まれながら、
「恋の骨折り損」を最後まで楽しむことができた。


 今年の夏は母のことを思いながら、「リア王」を見るために列に並んだ。雷雨
の予報だったが、午後の天気は快晴だった。嵐になったのは芝居が始まってから
45分ほど過ぎた頃、リア王が道化と共にヒースの野をさまよい歩く場面が始まる
はるか前だった。しかし、雨で一時中断されるのはいつもの事。雷と稲妻が過ぎ
去ると、芝居が再開された。

 美しい夕暮れ時に野外でシェークスピア劇を見ると、「お気に召すまま」のオ
ーランドやロザリンドと共にアーデンの森にいるような気になったり、「夏の夜
の夢」のタイタニアやオベロンが登場する場面に立ったような気になったりする
ことがある。それと同じように、私たちはみな、「リア王」と共に自然のなすが
ままになっていた。俳優たちの衣装は本物の雨に打たれてずぶ濡れになった。生
きていれば雨に打たれる日もあれば風に吹かれる日もあることを思い出させるの
が嵐の役目の一つだとすれば、容赦ない自然は報いを受けるべき人にもそうでな
い人にも暴風雨を送りつける。その日の観客は俳優たちとともに嵐を存分に味わ
った。

 雨に打たれながら、私は母を世話したことを思い出していた。母を守ろうとし
たこと、それができなかったこと、母は必ずしも守られたいとは思っていなかっ
たことも。リア王は嵐の中をどうしても外に出ると言ってきかず、肉体も心も嵐
によって傷ついていたにもかかわらず避難を嫌がった。

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“King Lear and the fool” by William Holmes Sullivan


 俳優たちは勇敢だった。土砂降り、そして霧雨の中を最後まで演じた。席を立
った観客も何人かはいたが、ほとんどが最後の悲劇が終わるのを見届けてから、
立ち上がって出演者に拍手を送った。出演者たちも私たちに拍手を送り返してく
れた。

 しかし、私と一緒に立ち上がり拍手するはずだった人はもういない。母がその
場にいれば、雨がやむのを待とうと言い張っただろう。

 母は自分が最も恐れ、日々、自分に付きまとう老いについての物語として「リ
ア王」を鑑賞しただろう。私はまだその域には達していない。グロスター伯が失
明した場面を視界がぼやけ、影や形しか見えない目で見ただろう。補聴器をつけ
た耳で聞いただろう。リア王の残酷な娘たちは父親を強い言葉で非難したが、母
はよく、自分の頭脳や記憶力についてそれに負けずとも劣らない強い怒りを口に
していた。

 母は美しい夕べだろうと、嵐が吹き荒れようと、夏の夜に無料のチケットを手
に入れ、最後まで観劇したという素晴らしい勝利を誇りに思ったことだろう。シ
ェークスピアのために嵐になっても劇場を去らなかった観客全員の勝利を喜んだ
ことだろう。


 2012年には母は日に日に弱っているようだった。短期記憶はすっかり失われて
いた。全てを失ってしまうと思い込んだ母はおびえ、混乱していた(実は薬のせ
いだった。薬を変えると、体力も記憶も回復した)。

 その当時のことだ。ある晩、私は母をイタリア料理店に連れ出した。一緒に出
掛けた私の一番下の息子は祖母の好みの話題を持ち出して、心配ばかりしている
彼女の気を紛らわそうとした。その話題とは高校で選択したシェークスピアの授
業のことだった。

 お察しのとおり、息子は授業で「リア王」を読んだばかりだと言った。すると
母の顔が急に明るくなった。突然、声に張りが出て、話のつじつまが合うように
なった。登場人物の名前も難なく思い出すことができた。リア王の老いの悲劇に
ついて、リア王が言った「蛇の歯よりも鋭い」ものについて、狂気と精神の破壊
について話すことができて喜んでいた。

 母は自分の人生のこまごまとしたことを忘れてしまうのではないかと恐れなが
ら、リア王と彼の失われた王国についてははっきりと覚えていた。私はこの二つ
について考えた。年を取り、リア王を演じるようになった俳優は当然のことなが
ら、月日が経てば肉体にも精神にも、力関係も家庭にも世間にも変化が生じるこ
とを知っている。しかし、観客もまた年を取り、毎回異なる目、耳、記憶力で芝
居を見ているのだ。


 不本意ながら、私は「ロミオとジュリエット」のキャプュレット夫人や「ハム
レット」のポローニアスに自分を重ね合わせることがある。しかし、まだリア王
には共感できない。母があともう1シーズン、セントラルパークでシェークスピア
劇を見られたら、と思わずにはいられない。80歳代の人間が80歳代の登場人物に
共感できただろう。「ちょうど80歳を超えたばかり。率直に言えば、私は正気で
はないようだ」というリア王のせりふがある。

 母は私たちと一緒にヒースの野に出たかっただろう。母はそのときも私のそば
にいたし、これからもいつも私のそばにいる、というのはあまりにも簡単だ。そ
う思うのは、シェークスピアがそれより厳しいからである。最後には、シェーク
スピアが残してくれた言葉に感謝しながら、人は一人きりで嵐に立ち向かうのだ。


(ペリー・クラス博士はニューヨーク大学でジャーナリズムと小児科を担当する教授で、
同大アーサー・L・カーター・ジャーナリズム・インスティテュートのディレクター)















2015年07月08日

身に余る仕事

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最近、魅かれている言葉。


  Always take a job that is too big for you.

  常に身に余る仕事を引き受ける


Harry Emerson Fosdick というアメリカの神学者の言葉なんですが、
いいなあと思って。
ちょっと禅の世界観にも通じるような。

禅は、楽(らく)のきわみの極楽を目指す道ですけど。
大変な仕事であるほど楽しめば、それまで得られなかった境地がひらけるよ、
という感じの、ね。

うわこれは大変だあ、と思うような仕事なら、
それはもうひたぶるに、目の前のひとつひとつに集中して、丹念に、
クリアしていく。

タスクは大きいほど世界は開かれていくわけで、
そりゃあもちろん、とてつもない努力も必要なのですが、
でも、努力できるしあわせを噛みしめる、というかね。

それを喜びにできるかどうかは自分しだいですものねえ。

やるって決めたからやるんだよ、という感じで、
外野のことも耳に入らず、評価も気にせず、
自分の納得を求めて行動しているひとは、見ていてもうつくしいなあと思います。

常に身に余る仕事を、する、んじゃなくて「引き受ける」ってところが、
ポイントなのだな。
「引き受ける」には意思があるじゃないですか、それがかっこいい。

たいへんですけどね、実際、常にそんなことをしていたら、
でも、ヒトカドになった人は、みんなそんな感じだなあって思うので。
たぶん、努力とかそんなレベルでも、もうなくなってくるんでしょうね、
自分の納得の前には。

うん、たぶんね、というかきっとね、
暮らしの中で引き受けるということをやっていると、自然に、
舞台を引き受けるという気構えもできるんですよね。

自分のシーンは自分が引き受ける。
お客さんは自分が引き受ける。
自分が舞台を背負う。

そういう気構えがある役者とない役者では、
客席にとどくものはまるで違ってくる。

…この自分「が」っていうのは、「我」ってことだから、
あたしがあたしがっていう女は大変みっともない、
なんてことを学生のときに言ってた教授がいましたけど、
でも、この場合の「が」は、なかなかいいんでない?と思います。

ケツを持つっていうのは、それだけで尊いですもん。
こういう「自分が」は別次元だな。
引き受けるって、そういえばたいがい身に余ることだったりしませんかね。(笑)

常に、身に余る仕事を引き受ける。

うん。
そう思うと、こころに鎮めができる。

なんか、自分を生きる、って感じがします。

オススメです。(^_-)-☆











2015年07月03日

半夏生のころ

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半夏生―はんげしょうって、聞いたことがあるでしょうか。
なんともロマンチックで神秘的な響きのする言葉じゃありません?

ちょうど今頃の時期をさす季節の言葉です。

節分とか彼岸など9つある雑節(ぞうせつ)の中のひとつで、
夏至から数えて11日目の日。
夏至も年によって変わるので、今年の半夏生は7月2日でした。


昔は、小暑の前日までの5日間ほどをそう呼んだそうで、
この時期には天から毒気が降るといわれていたんですってヨ。

井戸に蓋をしたり、野菜を採って食べないように気をつけたり、
田植えも半夏生のころまでに終えることを目安にしていた、
農家にとっては大事な時期だったのだそうです。

天から毒というのも凄いイメージですが、
食中毒になりやすい時期だからかなあなんて、
つい実も蓋もない理屈を考えてしまいながら(笑)
自然とともに生きてきた日本人は、こうして季節の節目に美しい言葉を与えて、
暮らしを送る道しるべにしていたんですね。


私も、この半夏生という言葉を知ったのはここ数年のことです。

美しさにつられて自分のボキャブラリーにしたくて、
調べてみて意味や背景を知ったら面白くて、
自分のなかの梅雨時に、「半夏生のころ」というアクセントが生まれて、
少し、この季節がいやなものじゃなくなりました。

美しい言葉を知ると、心のなかも美しくなるのが好きなのです。
だからきれいな言葉に出会うと、なんとしても自分のものにしたくなる。


言葉は思考をつくります。

人って、自分が知っている言葉の範疇でしかものを考えられないんですって。
これって凄いこと。
言葉をたくさん知っていると、考え方もどんどん広がるんですね。

言葉を知るということはその概念が身につくということですから、
読解力はもとより、思考力と表現力も上がることになる。

インプットしたらアウトプットしたくなるのが、人間ですものね。
まして役者なら。。


俳優は言葉に敏感にならなければいけない仕事です。
それはつまりは、語彙を増やすということですね。

自分の言葉をたくさん持っている人は、
広く深くものごとを捉えられるようになるから、
役づくりの幅も広がって当然、なわけですよね。

言葉は大事ですよ。
死ぬまで増やし続けていったほうがいい。
分からない言葉に出会ったら、どんどん調べてどんどん喋っていったほうがいい。

今はいい世の中になりました。
図書館にいかなくても指先だけで知識を増やせるんですものね、
スマホのおかげで、それこそ無限大に。


「ハンゲショウ」の由来は、
この時期に咲く花からきているともいわれているんですって。
その花の名は、半化粧。
葉に半分だけおしろいをぬったような姿からつけられたのだそうです。

そこにこの「夏」と「生」の字を当てた昔のだれかは、すごいですよね。
お坊様かしら。

たしかに夏までまだ半分。
もう半分で夏になる。

私の今年の半夏生は、言葉を愛する教室のはじまりの日になりました。

R.