2016年03月03日

勝って、しかも負けるという術…

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■第三幕 第二場 104ページ

   ジュリエット
  教えて、汚れなき二人の純潔を賭けたこの勝負に、
  勝って、しかも負けるという術を。

原文:
Come, civil night,
Thou sober-suited matron, all in black,
And learn me how to lose a winning match
Played for a pair of stainless maidenhoods.

現代英語訳:
Come, night, you widow dressed in black,
and teach me how to win my love so that we both can lose our virginity. 


原文の大意を直訳すると、
「初体験に臨む二人が、この勝ち試合で(ちゃんと)喪失する方法を学ばせて」
ということだと思うのだけれど…

原文では「how to lose 」=負け方 になっているのが、モダントランスレーションでは
「 how to win 」=勝ち方 にひっくり返っているところが、軽く気になりつつ。。


上に記した教室テキストは、3人の翻訳家さんの文を混ぜたものなのです。
どれも帯に短し…だったので。


       教えて頂戴、穢れない二つの操を賭けたこの勝負、
       どうしたら失うことで勝利できるのかを。
河合祥一郎:訳 


 意味は分かりやすいのだが訳としてあんまり面白くない(個人的感覚)。
 操って、、なんか急にババ臭くなってジュリエットの心情に乗れなくなる(笑)



       二人の汚れない純潔を賭けたこの勝負、
       どうしたら勝って負けられるかを教えて。
松岡和子:訳  


 前半は詩的に美しい整いがあるのだが、後半はあっさりしすぎて意味が弱い。
 (個人的感覚)
 勝って負けられる?? 何のことやらと原文と河合版を引いて超訳かぁ!と。
 しかし普通に一読しただけでは謎のラインとしてスルーされかねない。
 ここ、けっこうポイント高い台詞なので、困りたものよと。



       お願いだわ、
       純潔無垢の処女と童貞と、その二つを賭けたこの勝負に、
       勝って、しかも負けるという術を教えてもらいたいの。
中野好夫:訳  


 前半の意味はもっとも分かりやすい、がこんな身も蓋もない台詞いうの嫌(笑)
 「勝って負ける」が二本出てきたことで、どうやらこれが邦訳のベーシックらしい。
 どうせなら中野さんの後半の美文調をいただくことにする。


というわけで、
日本語訳には英文の直截な内容以上の哲学的な何かがありそうに思えて来まして。

天下の名訳家たちが雰囲気だけで言葉を選ぶとは思えないので、
「勝って、しかも負ける」からは恋の深淵が覗けそうじゃありません?


恋愛において、「勝って、しかも負ける」とは、どういうことか。。

二人が初めて一つになるという時、運命というものも含め、
何に勝ちたくて何に負けたくなるのか。。


そのあたりを考えて、イメージを広げていただく、
これが今週の宿題です。
それぞれの恋愛観が見えてきそうで、面白い謎解きになると思います。
(^o^)v

私はこの先をせっせとリライトしますので、
まだ未読のシーンを中心に、あなたの疑問や解釈を持ってきてください。

ジュリエットもですが、特にロミオの狂乱っぷりがかなり謎です。
なんであんなに悶絶して、追放という処遇に恐怖したのか。。

そして、あの美しくも有名な別れのシーンですね。

恋するひとを残していく。
恋しいひとの背を見送る。
ひばりの歌で追い立て、引き剥がす、残酷な朝。

その時あなたならどんな激情におそわれるか。。

おうちで追体験しておいてください(笑)








2016年02月15日

『ロミオとジュリエット』〜秘めやかな誘惑

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仮面舞踏会でジュリエットをみつけたロミオは、ひと目で激しい恋に落ちる。

音楽と踊りと、嬌声と喧騒と。
華やかな賑わしさの隙を突いて、ロミオはジュリエットの手を取る。

そして言うのだ。


ロミオ
もしもこの卑しい手が
聖なる御堂を汚すなら
優しい罪はこれ
僕のくちびるは顔赤らめた巡礼ふたり こうして控え
そっと口づけして 手荒な手の痕を清めよう
ジュリエット 
巡礼さま それではお手がかわいそう
こんなにも礼儀正しく帰依する心を示しているのに
聖者の手は巡礼の手が触れるためにある
手のひらの触れ合いは 巡礼たちのくちづけ

出逢ったふたりは手のひらを合わせ、恋に落ちていく…

いかな「本読み」教室とはいえ、このホンにかかわってこの名シーンを体験しないのは、
シェイクスピアへの冒涜ともいえようもの(笑)
当然、手の動きを入れながらの読みをしてみた。

ここで問題になったのが、手を取ってから手のひらを合わせるまでの流れ。

ロミオはジュリエットの手を取り、突然こんな手荒をした罪を赦してほしいと乞い、
その罪を清めるために、巡礼者が額ずいて聖者の足に接吻するように、
手の甲にキスさせてくださいと懇願する。

ロミオは初めからジュリエットを聖なる愛の殉教者と定め、崇敬の対象とし、
教会で祈る巡礼のように、心のすべてをあなたに預けていると言っているのだ。

その悲壮で純粋な思いに、ジュリエットはほだされる、というより火をつけられる。

見知らぬ仮面の男なのだ、警戒すべき相手であるはずなのに、
ロミオの情熱は戸惑うより先に心を突き崩し、ジュリエットを無垢の塊にしてしまう。

そんなに畏れないで。
手のひらを合わせて心を通わせるのが巡礼の慣わしなら、
わたしのこの手はあなたが触れるためにあるのだから。

ジュリエットが言っているのはそういうこと。
そうして取られた手を解き、手のひらをロミオに向ける、という流れ。

ジュリエットは、取られた手をいったん離さないと手のひらを垂直にできないわけだが、
やってみるとこの離す動作がポイントになることがわかる。

拒否した風にならないように、そっと指をはずしていく。
これはひとつの賭けのようなもの、思いが感じられなければ相手は追ってこれない。
演者の間には密度の高い集中が通い合う。

そして、たなごころを合わせる。
この単純な動作がこんなにドキドキするものとは、みんな初めて知って驚愕していた。

このホンのエクスタシーは、まさにここにある。
バルコニーの場でも、結ばれて別れる夜明けの場でもない。
初めて相手を受け入れた瞬間なのだから。

清らかさとさりげなさを装った、とんでもなくセクシャルな行為。
それが手のひらをぴったりと合わせる動きなのだ。

こういうシーンは段取りにしてはならない。

演じ手同士の自然が絡み合うと、思わぬ化学反応が起きることになる。
自分も相手も次にどう出るのかわからない、スリリングで濃密な時間…

ここにこそ演じる醍醐味がある。
他人と溶け合える瞬間は、そうあるものではないのだから。

まあしかし、演者も人間なので、どんなにセクシャルなシーンでも、
いかんとも相手に反応できない組み合わせがあることも確かではある(笑)

この手のケミストリーは、演者同士の相性がよくなければ起きない。
演劇の奇跡のひとつだったりもするのだから、体験すると生涯忘れられない記憶になる。

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何組もでやってみてわかったのは、ジュリエットは決して受身ではないということだった。
ことほどさように、意外にもジュリエットのほうが明確に誘っているのだ。

初めて会っていきなりのこのスパーク。
あまりにも非現実的な、芝居じみたデフォルメの最たるシーンかと思っていたが、
さにあらず。

ロミオ役に真摯が見えると、そんなにも誠実に情熱的に思いをぶつけてくることに、
自然、you do wrong your hand too much 「かわいそう」 という気持ちになってくるのだ。
この思いの熱さは実際に動作をして初めて感じられたことだ。

可哀想ってのは惚れたってことさ、と言ったのは夏目漱石だったが、
文豪はみんなこういう真理を知っていると思うと震えが来る(笑)

確かに、そう思うと指は勝手に動いてロミオの手をきつく握り返してしまうなどという、
思わぬ反応が起きて自分でも驚くことになったりするのだから。

読解だけでは得られない登場人物の生の気持ちに触れられる喜びは、
こういう中にある。

しかし、手というものは雄弁だ。
実は言葉よりも真実を語るものかもしれない。
この手のひらを合わせる行為は特に、ある意味ではくちづけよりセクシーなものだ。

このへんの話をしていて、手のひらは五感の中でもっとも敏感な部分だからじゃないか、
という意見が出たが、
たとえば洋服を買うときには無意識に手触りをポイントにしているように、
確かめるという行為をもっとも的確かつ熟練ワザで行っているのは手なのだな。

その手でそういう手を感じるのだから。
手のひらをぴったり合わせるというのは。
ものすごく官能的な行為だったのだと、今更ながらにかなり驚いている。

シェイクスピアってやっぱり、とんでもない手練れだ。

『ロミオとジュリエット』を書いたのは、まだ20代の頃だったと思ったが、
こういう生理的な官能性を熟知していたことに驚嘆する。

ロミオは、合わせたジュリエットの手のひらから、指先から、
何を感じただろう。
それがあればこそ、二度もくちづけをねだる挙に出られたのは確かなのだ。

恋は、秘めやかな通い合いであるほどセクシーなものなのかもしれない。
その二人にしかわからない、秘密の華。

これを共有してしまったら、そのひとはもう群集の中の一人ではなくなる。
ふっくりとしたつぼみが、少しずつ、けれど素早くひらかれていって、
気づいたときにはもう、落ちている。

結ばれてはいけない相手なら尚のこと、あっというまに落ちていく。
恋という名の厄介な甘い苦しみに。


  これこそがみなさんにお見せしたかったロイヤルの Dnce of the knights。
  またすぐ消されてしまうかもなので急にアップされた幸運を喜びつつちゃんと観てねと切望。


「もしもこの手が…」
このセリフが始まるまでに、ジュリエットもロミオをみつけていたのだろうか。
それとも、スッと目の前に現れた見知らぬ男に手を取られ、驚いたそのとき、
初めてロミオの目を見たのだろうか。

シェイクスピアの原本にはト書きがない。
書かれているのはセリフだけ。
ジュリエットがどの時点でロミオを認めたのか、この会話がどこでなされたのか、
何も書かれてはいない。

それどころか、直前まで、
ロミオを追い返そうとするティボルトがキャピュレットに叱責される場が続いていて、
うっかりすると見逃すほどに、二人の出逢いのシーンは唐突に始まるのだ。

動きの指定がないということは、いかようにも演出できるということだ。

私なら、周囲の役者の艶なる動きも媚笑の交し合いも、そのまま続けさせる。
けれどロミオがジュリエットの手をとった瞬間、会話は手話のように無言にさせる。
音楽もピタリと止め、しかし楽士たちの楽器を繰る動きは続くのだ。

衣擦れの音しかしない静寂の中、ロミオの恋のささやきが始まる。
深海魚のようにゆらめきさざめく人々を背に、そこは二人だけの世界になる。


初めてのくちづけをロミオから二度も授けられたあと、
ジュリエットは言う。
「お作法どおりのキスね」

原本でのこのセリフは、You kiss by th’ book.

ブックとしか書かれていないのだ。
これはいわゆるエチケット本のことというのが、翻訳の際の定説になっているらしいが、
個人的にはここはそのまま、「本のとおりのキスね」 としたい。

ジュリエットはきっと、恋物語を読んでいたはずだから。
お話のとおりだった・・・そこには、未知のものに触れた驚きと、
思ったとおりのロマンチックを体験できた高揚がある。

ジュリエットは恥じらいながら、震えながら、しかし夢見心地の面差しでこう言ったのだ。


こういう微妙なシーンは、人によって違う流れになるのが面白かった。

若い人は形を整えないと入っていけない人が多い。
熟女陣はむしろ驚くほど素直だったりもして。
残っている恥の分量の違い…とは思ってませんよ(笑)

むしろ、刹那に身を預ける術を知っているかどうかの違いだろう。
今、目の前にいる人に、瞬間、恋する。
まさしくのロミジュリそのものじゃありませんか。

せっかく世界一の恋物語と縁が出来たのだ、
3月が終わるまでこのロマンスに夢中になっていただけたら、
センセイは本望です。(笑)





2016年02月08日

『ロミオとジュリエット』〜恋に落ちる理由(わけ)

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ロミオとジュリエットの運命の出逢いは仮面舞踏会で起きた。
古今の数ある恋物語の中でも、今なおロマンチックの頂点を譲らない名シーンだ。

だいたいこの仮面舞踏会という音と字づらがすでに、秘密めかして華麗すぎる。
わけもなくドキドキする、何かイケナイ期待をつい抱かされてしまう言葉ではないか。

子どもの頃はなぜか 「ぶどうかい」 と発音していたため、
私の舞踏会のイメージは紫、いまだに葡萄酒を連想してしまう。

そんな話を教室でしたら、受講生の一人から、
あたしは武闘会だと思ってたから違うって知ってビックリしました、
とむしろこっちがビックリだよのエピソードが出てきて大笑いになった。


『ロミオとジュリエット』 は数多くの芸術作品のテーマになっているが、
解釈のイメージを広げるのに大いに貢献してくれるのは、バレエの “ロメオとジュリエット” 。

特に、プロコフィエフの音楽にケネス・マクミランが振付けたバージョンが、
非常に演劇的で、素晴らしい。
コスチュームも、見ればどの登場人物かすぐわかる仕掛けになっている。

この舞踏会のシーンで演奏される 「騎士たちの踊り」 は、誰もが必ず耳にしたことのある、
一度聴いたら忘れがたい名曲だ。


というわけで、本日の参考資料。

【まずは音楽とロミオ中心で、ミラノスカラ座版】

※つけていた動画が削除されてしまったためロングバージョンを。(根性・笑)
「騎士たちの踊り」 は04:25からです。

ね、聴いたことあるでしょう。
ロミジュリの中でももっとも有名な曲が、仮面舞踏会のテーマだったわけ。

ロミオとジュリエットが出会った瞬間、わかりましたね?
震えが来るほどドラマチック。
伝統的解釈のバレエには、この瞬間はない。
ケネス・マクミラン、さすがはシェイクスピアの子孫たる英国人、文学的ツボを外さない。

スカラ座版で出色なのは、演劇的にはこのロミオだ。
まずハンサムで非常によろしい。(笑)

実は、文字で読むとロミオはかなりアンニュイ、というか女々しかったので、
教室の女子軍は驚いたのだった。
現状、どこがいいんだこんな男というストップ安から上昇できないキャラなのである。
主役なのに。

ところがこのアンヘル・コレーラ演じるロミオは馬鹿に明るい。
ほとんどアホちゃうかというぐらい陽気。

これが、実はロミオの解釈に大きなヒントをくれる。
もしかして、一幕に居並ぶ苦悩のセリフも、このアホちゃうかなノリで騒がしく喋っていた?
と思えてこないだろうか。
イタリア男だし。

そう、ロミオはハムレットではないのだ。
恋する青年なら、ジェットコースターのように感情が乱高下しても不思議はない。
そのほうが若々しいし、のちの悲劇との明暗もクッキリする。

アンヘルの姿でロミオを読み直してみると、まったく違う世界が現れる。
たぶん、良識の塊のような親友ベンヴォーリオのキャラも違って見えてくる。

ミラノ版が惜しいのは、キャピュレットとパリス、ティボルトの衣装が、
周囲と同化しやすいデザインになっていて男性陣のキャラがいまいちよく見えないところ。


【個々の人物像がよく見えるのは、なんといってもロイヤルバレエ版】

この英国ロイヤルバレエ団の 「騎士たちの踊り」 もあったのだが、
残念ながら著作権の関係で見られなくなってしまった。
ここに掲げるのは冒頭の群舞が終わった直後、ジュリエット登場から。

がしかし、演劇的に見るにはここは非常に参考になる。

なんといってもシニョール・キャピュレットのキャラクターの立ち方が見事。
演じるクリストファー・サウンダースのおかげですっかりキャピュレット贔屓になってしまった。

このロイヤルバレエ団のコスチュームは非常にわかりやすい。
黒銀がキャピュレット、白金がパリス、赤銀がティボルト。
もう見ただけでそれぞれの役が持つ重厚感まで伝わってくる。

芝居パートはそれぞれがキャラ立ちしているため、バレエであることを忘れるほどだ。


このキャピュレット側の男性陣3人と、ジュリエットを演じるタマラ・ロホとのバランスが絶妙。

タマラのジュリエットはこよなく優雅で、はかなく悲劇的。
この娘には初めからシリアスな運命が待ち構えていることを予感させる。

一方で、彼女がまだ恋を知らぬ13歳の少女ということを考えると、
実は吉田都のジュリエットが一番リアルかもしれない。

軽やかで楽しそうな子供っぽいジュリエット。
特筆すべきは、パリス役が彼女にいつもニコニコ向かっているところ。
本当に心からジュリエットが好きなんだなあと思えて面白い。

この汚れなき娘がみずからとてつもない悲劇に転がりだしていくと思うと、
哀れさひとしおという気持ちになる。



【ロミオとジュリエットが恋に落ちたわけ】

先週の講座で大きなテーマとなったのは、ロミオとジュリエットはなぜ恋に落ちたか、
正確には、
ジュリエットは何が決め手となってロミオを選んだのかだ。

ロミオにとって、実はジュリエットは初恋の相手ではない。
ジュリエットに出会う直前まで、
ロミオは同じキャピュレット一族のロザラインに狂っていたのだ。

ロミオのいとこにして親友のベンヴォーリオには、
他の娘を知ればあっという間に忘れる軽い気持ちだと看破されている。
これは、はからずも後の悲劇への予言ともなっているのだが。

このロザラインという娘は、なぜかロミオを徹底的に遠ざけている。

甘い言葉にも流し目にもなびかない鉄の処女、尼僧のように硬く厳しい態度で、
それが一幕でのロミオの憂愁の原因になっている。
ロミオは、そもそもロザライン会いたさにキャピュレット家の仮面舞踏会に乗り込むのだ。

それもこれも彼女がつれないゆえ。
しかし、恋とは、相手からあまりに無視されたらおのずと冷めていくものだ。
そこまでの仕打ちをする人間が自分と合うわけがないと悟るからだ。

が、ロミオの熱は嵩じる一方。
つまりは相手を自分の現実の中で捉えていないのだ。

ロザラインはアイドルのようなもので、
恋する男でいる自分に酔っているだけだということに、ロミオはまだ気づいていない。

ジュリエットの背景もまた複雑だ。
ヴェローナ大公の甥であるパリス伯爵との縁談を抱えているのだ。

パリスという名は美男の代名詞、物語中でもヴェローナの花とまで言われている。
実際、パリスはノーブルでやさしく、何より本心からジュリエットを望んでいる。

良家の娘なら誰もが嫁ぎたい理想の相手であろうに、ジュリエットは乗り気になれない。
母親からは、パリスの目を見ればきっと愛せるようになると婉曲に迫られつつ。

この、「目を見る」 というのが、このホンでは恋の試金石、肝なのだ。

ジュリエットは舞踏会でパリスと踊ってその目を見ても、やはりピンと来なかった。
一方で、仮面をつけて顔が半分わからないようなロミオに、ひと目で恋しているのだ。

この違いはなんなのか、少し考えてもらったら面白い意見が出た。
パリスの目には 「家」 を感じるから好きになれないというものだ。

つまり、パリスにとっては恋だったとしてもジュリエットのほうが、
大人の政治臭を察知してしまってダメというもの。

ジュリエットはまだ初恋も知らないうぶな娘なのだ、
恋をしたい!と思う気持ちが何より優先されるのは当然の年頃だ。

これはいいところを突いている。
パリスに、よしんばおだやかな愛までは感じられても、それは恋の情熱ではないのだ。
ロミオの目からは、その情熱があふれだしていたということ。

ひとことで言うと、これはアニマル・マグネティズムというのです。

動物的な磁力。
磁石のように、どうしようもなく引き付けあう本能のほとばしり。。

キリスト教徒として規律に準ずる生き方をしながら、西洋には裏にこんな言葉があるのだ。

そこには理屈はない。
そういう相手と、二人は出会ってしまった。
それはまさしく、お互いの運命と出くわしてしまったということだ。

と思うと、ロザラインはロミオにはアニマル・マグネティズムを感じなかったのかもしれない。
あるいは、リスクの高い敵方の息子などはなから愛情の対象とは思えない、
ティボルトと同じ筋金入りのキャピュレット原理主義だったのかもしれない。

それとももっと大人で、アニマル・マグネティズムの危険を感じていて、
そんなものに人生を預けるなど愚かしすぎる、とすら思っていたのかもしれない。

ロザラインを、いずれ良いところに嫁ぐ気まんまんの超現実主義者と仮定すると、
ジュリエットの情熱の激しさや意志の強さ、純粋さがよくわかる。

この物語は、たった五日間の話なのだが、
二人は、アニマル・マグネティズムを知った瞬間から大人の階段を駆け上り、
大人以上に成熟して命を完結させたのだ。

まあ平たく言うと、ジュリエットはパリスをセクシーだと思えなかったということだ。

こればかりは蓼食う虫も好きずき、他人の感覚は基準にならない。
とはいえロミオは大変な美形なのだけれど。

恋とは、見も蓋も無い言い方をすればセックスしたいということの言いかえだ。
生き物はみな自分の子孫を残すために生きているのだから、何も忌み嫌う言葉でもない。
明け透けがいいとも、無論思わないが、命の持つ情熱とはそのぐらいナマなものなのだ。

今、なかなか恋愛が出来ない人が増えているというのは、
この生き物としての生々しさを肯定しづらい世の中になっているからかもしれない。

社会人としてはパリスやロザラインのように常に完璧に整った如才なさがベスト、
そのほうが生きやすい。
だが、アニマル・マグネティズムはその対極にあるものだ。

社会人としてのソフィスティケイトを目指すと、本能的なエモーションは邪魔になる。
時代もまた、そうした洗練を現在まで要求し続けてやまない。
ロミオとジュリエットは、素朴な時代の最後の分水嶺に生まれ落ちた恋人同士だったとも、
言えそうに思う。

シェイクスピアが書いたという印象で格調高さばかりを意識して読んでしまいがちだが、
舞台はイタリアなのだ。
『ロミオとジュリエット』は、ラテンの熱いノリで解釈したほうがすんなり通るホンだ。


というわけで、オマケの映像。

ニナガワで鍛えられた本邦当代のロミオ役者が無茶ぶりに応えているものだが、
生瀬勝久と古田新太という小劇場界名うての手練れが目指すところは、
シェイクスピアの神髄を的確に突いていてさすがだ。



続き ■vol.2 ■vol.3

ばかです。(笑)
が、お正月に見た蜷川さんの特集番組での藤原竜也よりこっちのほうが凄味を感じるのは、
この人が本物だという証しですね。

なんだか今回は貼り付けばかりの記事になってしまったけれど、
ビジュアルの説得力っていうのはやっぱり凄いですからねえ、いい時代になったもんです。

はい、扉絵のラファエル前派フランク・ディクシー卿の絵画も含め、
ご紹介したあまたの美しき芸術家の力をお借りして、
今週はさらにヴィヴィッドに、とみお…いやいやロミオとジュリエットの二人に、
会いにいきましょう。

※注:まちがってもジュリエットは古田新太で想像しないように。







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2016年01月29日

『ロミオとジュリエット』〜謎ときの旅のはじまり

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『ロミオとジュリエット』 の講座が始まっています。
こちらのクラスはまた、『芝浜』とは違う独特の快感があるんですよね〜。

文学的アプローチから未知を解き明かしていく集中には、
なにか心を浄化してくれる作用があると、いつも感じます。

楽しさもひたひたと忍び寄ってくる肌ざわりで、気づけば軽い興奮状態になっていて、
もっともっと知りたい!という思いが、新鮮なオレンジを噛むようにあふれだすのです。

体験受講でいらした方も継続になってくださいました。
昨日まで知らなかった人と一緒に新しい扉を開けていく…思えば極上の出来事ですよね。
この熱い歓びもまた、教室を開いてみて初めて知ったことのひとつです。

さて、『ロミオとジュリエット』 です。
訳者によっては文庫本で240ページに至る長尺、教室では一幕から順に追いかけます。

な、長すぎるので、しかも内容がまた濃すぎるので、最後まで行き着けなかったら、
まあ夏からの教室に持ち越しでもいいやと、腹を括ることにしました。(笑)
実際、大急ぎでやるにはもったいなさすぎる名作ですからね。


【プロローグを置いたワケ】

このホンには、プロローグがある。
芝居の始まりと共に、序詞役(じょしやく)というキャストが出てきて前口上を語るのだが、
この内容がビックリすぎる。

物語の始めに、結末をネタばらししてしまうのだ。

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普通、物語というものはラストシーンを隠すものだ、
そこにこそ、時間をかけてその世界とつきあった醍醐味があるのだから。
シェイクスピアは何故こんな構成にしたのだろう。

彼のほかの作品に、オープニングで結末まで開示しているものは無い。
まして上演時間にまで言及しているのはこの作品だけ。

もしもこのプロローグが無かったら、観客は若い男女の純粋な恋心に酔いしれたまま、
二人が自殺してしまうという悲嘆のどん底に突き落とされることになる。
ショックが物凄いだけに、ほかには何も思い至れなくなる。

シェイクスピアは、それを嫌った。
彼が観客に提示したかったものはもっと深い、運命への俯瞰といったものなのだ。

序詞役は 「二時間」 と言っているが、実際の上演時間は3時間以上になる。
「二時間」 は記号なのだ。
恋の始まりから悲劇的結末までほんのちょいの間で突っ走る、という誘導がなされている。

ロミオとジュリエットが出会うのは、芝居が始まってほぼ30分後。
二時間と聞いた観客は、
やっと出会った二人が、残りわずか1時間半で心中するのだと思うことになる。
観客の無意識には、この二人には時間がないという切迫が擦り込まれる。

その切迫感はそのまま、若い二人の恋情の激しさとリンクしていく。
それはまた、運命というものの厳しさを身に沁みさせる一因ともなる仕掛け。

つまりは、観客の興味は、何が起きてなぜ死ぬことになるのか、その一点に絞られる。

死ぬことが分かっているのだから、「なぜ」 ということが最重要になるのだ。
その 「なぜ」 こそが、シェイクスピアが見せたかったものということになる。

なぜそんなことになったのでしょう?

それはこれから、一人一人の解釈によって導き出される。
「あなたの答え」 を探していただくのが、このクラスを開いた意義なわけです。


【劇場構造がもたらす芝居運び】

上では一幕と書いたが、実はシェイクスピアの原本には 「幕場」 が書かれていない。
一幕一場のような区切りは後世になって便宜上加えられたもの。

これは、当時の劇場の構造によるところが大きい。

シェイクスピアが『ロミオとジュリエット』を初演した小屋(劇場)はグローブ座ではないが、
構造はだいたい似たような作りで、舞台センター奥にカーテンで仕切られた開口部、
左右に役者の出入り口 (この図では赤い柱の蔭になっている部分) というのが基本。

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たとえばジュリエットが仮死の薬を飲む場面などは、センター奥を自室としておこなわれ、
ジュリエットが倒れてカーテンが閉まるか閉まらないうちに、
上下(かみしも・舞台の左右)の出ハケ口から役者がセリフを撒きながら登場、
舞台は一転、大広間ということになり、即座に次のシーンが始まるという、
スピーディーな展開で芝居が進んでいた。

ちなみに、この二階部分を有名なバルコニーのシーンに利用した。
というかこの構造だったからあのシーンを作ったのかもしれない。
グローブ座の場合は、本来は観客用の桟敷席。

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この古い図はちょうど 『ロミオとジュリエット』 を上演しているところに見える。

劇場は半野外で舞台は張り出しているため、天井はあったとしても雨風はしのげない。
セットの無い、いわゆる素舞台(すぶたい)の状態で、
物語は役者のセリフや動きでのみ進行する。

照明が無いため芝居は日中おこなわれる。
暗転が出来ないのだから、小道具や置き道具の出しハケも芝居なかで行われる。
(ゆえに自分の行動や物の動きを指示する説明ゼリフが多い)

現在のようにセットチェンジで別のシーンを作ることはなく、
いわんや緞帳など存在しないのだから、「幕」 という概念自体がなかった。
というか舞台セットという概念さえなかったと思われる。

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Shakespeare's Globe --London

芝居は始まったら最後、切れ間なくノンストップでラストシーンまで行く。

舞台の周囲は立ち見席で、かなりの高舞台(たかぶたい・舞台部分が高いということ)のため、
最前列の客は舞台に腕を置いて見られるほど。
観客は自由に場所を移動できるので、私語も多い開放的な状況だったと思われる。

役者もだが観客も、悪天候の上演時は大変。

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シェイクスピアの芝居はなぜあんなに早口でまくし立てるのかと思っていたが、
セリフの分量の問題以上に、役者の演技力だけを見せる芝居だからかもしれない。

この、セットのない素舞台で役者たちが早い長ゼリでパワーを放出する芝居というと、
おのずと思い出すのはつかこうへいだ。

日本のアングラ演劇の概念を塗り替えたあの若さあふれる舞台と同じものを、
エリザベス朝の人々は、シェイクスピアの芝居に見ていたのではなかろうか。
ものすごい熱狂で迎えられた気がする。


【モンタギュー家とキャピュレット家の諍いの理由】

『ロミオとジュリエット』 の初演は、だいたい1595年頃というのが定説。
16世紀末に書かれたこの芝居の舞台は、14世紀のイタリアの古都ヴェローナ。

ヴェローナはイタリア北部、アルプス南麓に位置する古来よりの交通の要衝。
イタリアからオーストリアに抜ける南北路と、
ジェノバ―ヴェネツィア間を結ぶ東西路が交差する地。

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物語より百年ほど前、ヴェローナはこの地政学的影響と相まって、
神聖ローマ皇帝の後押しを受け、周辺諸国を征服し盟主となるが、
ローマ教皇が神聖ローマ皇帝を破門したため戦争になる。

以来この地の支配層は皇帝派と教皇派に二分され、熾烈な争いをするようになった。
物語のベースは、この歴史的事実を踏んでいると言われる。

ロミオのモンタギュー家は皇帝派、ジュリエットのキャピュレット家は教皇派。
皇帝派は封建貴族や地主層が多く、教皇派は新興の大商人層が多かったとされる。

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【名前にこめられた意味】

『ロミオとジュリエット』 の登場人物の名前には、それぞれ意味が隠されている。
英語圏の観客はスペルを見てそれぞれのキャラクターをイメージできる。

大公
エスカラス

ESCALUS

実在のヴェローナ大公スカリジェリ(デッラ・スカラ)家より。
スカラーは英語で天秤の意。天秤は裁判所のマーク。

モンタギュー

MONTAGUE

Mount を想起させる。そびえ立つ旧家のイメージ。

キャピュレット

CAPULET

Capital を想起させる。資本家のイメージ。

ロミオ

ROMEO

イタリア語でローマへの巡礼の意。
巡礼は恋人への呼びかけ語でもある。

ジュリエット

JULIET

イタリア語名では女性名詞につきジュリエッタになる。
若々しい意味のJulia+可愛らしいを意味する愛称 etta。
July (聡明・明朗の意味有)と同じ語源、7月生まれ。

マキューシオ

MERCUTIO

Mercurius(メルクリウス=マーキュリー)を想起。
メルクリウスは世界にゼウスの意思を伝えて回る韋駄天。
スピーディーで雄弁な神。

パリス

PARIS

スパルタ王妃を略奪しトロイア戦争を引き起こした王子の名。
権力よりも戦勝力よりも世界一の美女を選んだ美男の優男。
パリスの審判」 元来は軽薄な軟弱者をイメージする名。

ティボルト

TYBALT

イギリス諸島の古い民話 『猫の王』 のタイトルロールの名。
ネズミ捕りの意味。

ベンヴォーリオBENVOLIO「善意」 という意味。
   



…講座内容全部は、とてもじゃないけど書ききれませんね。

まだまだ、ロミジュリの背景調査は始まったばかり。
しかし解釈は、
こうして外堀を埋めていく中でいつのまにか「確信」に迫っているものなのです。

次回はさらにたくさんの質問が出る時間になればいいですね。
疑問は知性の鍵ですから。

さあ、小さかったり古かったり、透き通っていたり重かったり、
扉は居並んでいますヨ。
次はどこからあけていきましょうか。