2016年10月03日

ご無沙汰ばかりと…

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夏の講座は一週間前にすべて終わった。
熱い夏だった。

出会うための場なのだけれど。
すべてが愛おしく、すべてがせつない。
恐れていた秋まで来てみると、その思いはやはり、ひとしお胸に迫って、
嘲るほどに苦しい。
たとえば夏までは見も知らなかったひとが、心の琴線にふれあう存在となって、
そうして秋。
今はそれぞれに、ひとり、独り。

二度と会えない人になるかもしれない。
また戻ってくる人かもしれない。
できるのはとにかく…せいいっぱい愛すること。
それだけは揺るぎなく、いつわりなく、惑いなく。
いや、惑いはあるのだが、常に、一瞬間ごとに、くるくると。

心ほど移ろうものはない。
当てにできない何かただ一点を求めて、人は際限なく餓(かつ)え、振り回される。
まして人のそれともなれば。

恋をすると芸が駄目になる、そんな言葉を、ついこのあいだ聞いた。
なるほど確かに…そうかもしれない。

恋は、人の心を刹那でも得ることができたという、生きる喜びの最たるもの。

しかし、誰かをあまりに恋うると、この実世界では脱け殻になってしまう。
天に浮き、地にもがき、心は瞬間ごとに乱され、とても現実を活きられなくなる。


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恋ほど儚く頼りにならないものはない、そんなものに自分を預けるのは嫌。
人の心を欲しがるから、そのたび苦しい淵に沈んで自分を生きられなくなるのだ。

確かなものが欲しい、決して裏切らない確かなよりどころ、
それは何だろう、この世の中にそんなものはあるのだろうか。

あるのだ、たったひとつだけ。
自分自身だ。
この身が生きているというその事実は、決して侵されることはない。

だから、人の心の介在しない自分の意思というものだけを見定めて、
ただ自分だけを頼みに、生きる。
前へ…進んでゆく。
そうすれば他者から傷つけられることも苦しめられることもなくなる。


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なるほど確かに…人生の構築の前には、恋は悪い酒なのかもしれない。
個人的には、一度しかない今生で、このタチの悪い二日酔いに苦しむことを否とは、
未だにし得ないのだけれど。

小町のこの思いは、言い換えれば 「もう恋などしない」 ということだ。
そう生きられたらどんなにラクか。

小町のこのスーパーリアリズムを完遂できる人間など、実際にはほとんどいないだろう。
恋は、するものではなく落ちていくものなのだし、
やはりもっとも人を成熟させ、人生に意味を与えるものなのだから。

青春の陶酔者、詩人の対極に在る老婆小町に、何か共感しきれぬわりなさが残るのは、
この乾いた達観に追いつけないからだろう。
人はやっぱり潤いを抱かなければ生きてはいけない、たとえそれが涙であっても。

小町はすでに人間の性(さが)の超越者なのだ。
ということは逆に、煩悩に懊悩した体験が、若き日の小町にもあったということだ。


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「それ以来」 とは、いつのことだったのだろう。
その時から恋はやめた、ということなら、それはやはり少将を失った時ではあるまいか。
失ったというよりは、裏切られた時。

その裏切りは究極の愛の証でもあったのだけれど。


これにも関連して、どうしても分からなかった最大の謎が、最後の金曜クラスで解けた。

小町との諍いのあと、死に魅入られた少将が一度立ち止まって直後に吐きだす長ゼリ。
これが何の暗喩か分からず、少将の恍惚の源泉にどうしても迫れずにいたのだ。


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いわゆる三途の川の渡し船というやつが、少将の場合これほどのスケールなのか?
としか考えつかなかったのだが、受講生がこれはセックスの描写では?と気づいたのだ。

なるほど、これは慧眼だ、そう読めばすべてが通る。
「ありえないこと」 の意味がハッキリ解かる。

この少将という男は、性に目覚めた頃から極上の恋を夢みてきたのだ。
小町はこれを実現してくれる存在、まさに夢の女と、彼はめぐり逢ってしまったのだ。

だから百夜通いも達成でき、文弱の徒と罵られようと軍務を放棄することさえ出来た。
だから死によってこの恋を永遠に凍結させることを、真から望んだのだ。


この思いが子供の頃からの強烈な夢だったと分かって、確信したことがある。

これはやはり 『髪結いの亭主』 だ。


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 というか、パトリス・ル・コントは、
 この戯曲を読んでいたのではなかろうか。

 フランスではいまだ別格のこの作家だ、
 知識人なら知っていても不思議はない。

 もしかして、『髪結いの亭主』 は、
 この物語から着想したのでは?

 「究極のエゴは、最大の愛の刻印」

 私が感じたこのメッセージは、
 少将が小町に与えたそれそのものだ。

 映画では男女が逆だが、
 子供の頃からの夢の実現といい、
 ヒロインの残酷な選択といい、
 ディティールが酷似しすぎている。

 これはぜひ映画を観て確かめて欲しい。


少将は小町との恋に陶酔し、死ぬことで永遠を得た。

この世は無常。
時が移ろっていくかぎり、すべては変わる。

どんなに愛した人とも、必ず別れが来る。
どんなに大切なものも、必ず色あせていく。

無常ということと直面するとき、人は打ちのめされ、圧倒的な苦しみにしゃがみ込む。

小野小町こそ無常の体現者。
物語の原本である謡曲も、もちろんこの物語も、すべてはこの歌から始まっている。


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〜桜が長い雨に色あせ散っていくように、恋も自分もあっというまに移ろい褪せていく〜

無常。

少将はこれを嫌った。
相手が変わってしまうなら自分の時を止めれば、関係は永遠に凍結される。

恋に殉じ、自分の時を止めることは、相手に一生消えない烙印を押すことになる。
少将は無常を越えようとした。

老婆は無常を受容している。
相手に出会ったことも失うこともすべて仕方のないこと。

けれど老婆の心の中には少将との時間が息づいている。
何百回、何千回と心をたぐっても、少将との事実が色あせることはない。

失われた恋は、それが甘美であるほど思い出すのが辛すぎて、すべて封印したくなる。
そうしないと生きていけない。

恋の極上が欲しくてあんなに夢中になって情熱を傾けたのに、悦びに纏った艶めく絹は
失った途端に自分の首を絞める紐になる。

苦しすぎて、だからすべてを封印するのだ。
そうして時を経る間に本当に忘れてしまう、あのとき確かにあった幸福まで。

しかし小町はすべてを鮮明に覚えているのだ、百年たっても鹿鳴館の再現ができるほど。
これは残酷なことだ。

人は、離れてしまえば遠くなる。
存在は日常の刺激の向こうに埋れ、薄まり、絆が弱ければ思い出すことすらなくなる。

それが片恋なら、報われぬ想いを忘れようと自ら刺激にまみれる努力をすることになる。
去るものは日々に疎し…
なんと怖ろしい言葉だろう。

しかし毎日をルーティンで生きている小町には、刺激が上書きされることがない。
「それ以来」 80年、記憶は鮮明に保たれたまま。

少将とのことは小町の最後の恋だった、最後で本物の恋。
「それ以来、酔わないこと」 を自ら選んだのだ、どれほど愛していたかということだ。

百年ごとにめぐり逢う恋は、百年ごとに失われる恋でもあるのだ。
いったいこれは幸福なのか不幸なのか。。


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少将は永遠が欲しかった。
小町は永遠など無いと悟っていた。

永遠が欲しい少将は夭折し、永遠など信じていなかった小町は生き永らえる。

もしもあの時…
「思い出した」 と言った詩人が覚醒すれば、小町も滅びることが出来たのかもしれない。
少将から戻って来られれば。

しかし詩人は、完全に少将の魂と融合してしまう。
そうして心から、「君は美しい」 と言う。
それは運命だと知っているから、押し止めようとする小町の声は力なく、細くなっていく。

小町はあの時、三人を相手にしていたのだ。
少将と、詩人と、「男」 という生き物とを。

さびしい、豪奢な、なんという恋。

・・・・・・・・



ひと夏、夢中で追いかけた、小町という名の女の物語。

最後はやはり、この曲に戻りましょう。


この曲との、そして一緒にすごした受講生さんたちとのめぐり逢いが、
この夏を、真から美しい季節にしてくれました。

やはりとてつもない名作でした。
物凄い魔力に満ちた物語でしたね。

夏の旅は、ここで幕です。
でも…

いずれまた。
今度はちゃんと、肉体を使ってこの物語と出逢う。

二百夜か、三百夜かのちに…
そういう運命だから、
ふたたび逢いなおしたその時に、交わす言葉はもう知っている。


ご無沙汰ばかり。


その時は、きっとまあるく満ちている、
月の光もふんだんにある庭で、
焔の影のようにしずかに、いつまでも、、輪舞(ロンド)を踊りましょう。










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2016年09月15日

忍ぶ恋にて…

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胸に秘めたまま…決して明かさぬ。

恋の至極は、忍ぶ恋。

なつかしい言葉だ。
個人的な話をすれば、この言葉と初めて出会ったのは高校時代だった。
国語科の先生と交換日記をしていたのだが(笑)その中に書かれていた。
まったく理解できなかった。
だって恋はハッピーエンドを目指すものと思っていたから。

けれど気づけばあの時の先生の年齢を遥かに越え、今、深くうなづく自分になっている。
長い旅をそれなりに、してきたということか。

大人になると、たいせつな思いほど表せなくなる。
表にしたら失われることが、もうわかっているから。

失うぐらいなら、告げない、告げずにずっと想いつづける。
触れてほしいと乞いながら、触れたら終わると戒めて。
忍ぶ恋は、吐息にひりつく大人の恋だ。


百夜目の思いを遂げようとしない少将のエゴが気になって、
というのはただの利己愛の話であるわけがないので腑に落ちず、色々調べているうちに、
この『葉隠』に行き当たった。

なるほどね、確かにこの作家と言えばこの書なのだ。
「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」の一節で有名だが、作家は10代の頃からバイブル
にしていたというのだから、「恋の至極」も26歳ではもう自家薬籠中の熟成物だったろう。
この年齢で忍ぶ恋の概念を物にしていること自体が驚きだが。

天才は40を越えたところで、葉隠の恋についてこう言っている。


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「美しい」と言うとなぜ死ぬのか、これが今更ながらに湧いてきた疑問だったのだ。

美しいってなに? なぜ「愛している」ではいけないの?
小町は愛されてなかったの?
少将とは、エゴを貫いた自己満足の中に死んでいった、そんな軽い男だったの?

これらの疑問が、この『…入門』で一気に氷解しましたね。

…というか、戦後日本とそれ以前の恋愛観のあまりの違いに戦慄する。
『葉隠』が書かれたのは1771年、江戸時代の佐賀藩士によってだ。

“戦後民主主義” しか知らない自分にすれば武士階級ならではのマゾヒズムなのでは?
と思うところだが、この概念を知ると近松や西鶴の書いた庶民の心中事件も理解できる。
日本人にとっての恋とは、かくも激しく密やかな、滅びと隣り合わせの「至極」だったのだ。

封建制度の理不尽な産物であったとしても、デフォルトが忍ぶ恋だったなんて。
高校生の自分がいた世界では、恋はすでに高らかに謳いあげるものになっていた。

敗戦とはこういうことだったのか。。
なんと恐ろしいことだろう、これは民族の人格の破壊だ。
作家が俗悪と斬り捨てるのもむべなる哉の、おそるべき魂の断層の此岸に、我々現代人
は棲んでいたのだ。

今の安寧や自由はこの民主主義がもたらしてくれている。
それはこんなに深い断層の上に存在していたのだという認識を得られたことが、今回この
作家に取り組んだもっとも大きな収穫かもしれない。
まさかこういうものが描かれていたとは。

ゆえに。
やはりこのホンは、狂おしいまでに美しい叙情に満ちた悲恋の物語にしなければならない。
小町は思いを内にたわめて、忍ぶ恋を生きる人なのだから。

少将は、エゴのために死んだのではなかった。
恋に殉じたのだ。
それが生涯ただ一度の奇跡と解ったから、迷うことなく陶酔に身をゆだね、滅びることを、
選んだのだ。

小町は命を懸けるに足る女。
小町の美を讃美し小町の美の中で死ぬ至福を、男たちは選ぶ。

「美しい」とは、恋の奇跡体験のことなのだ。
それは、瞬間にして生命の神秘や生の真理まで悟ってしまえるほどの体験。
その陶酔を知ったらその先のすべてがいらなくなる、本物の恋。

小町はその意味では、美であると共に恋の化身とも言えるのかもしれない。
だから男たちは、決して愛しているとは言わない。
発散の減殺を頑として受け入れず、美しいと嘆じながらおのれが滅ぶほうを選ぶ。

それは究極の愛の告白。
小町は何度その想いを浴びてきたのだろう。

しかし思う。
小町が必死に取り乱しながら引き止めたのは、少将だけだったのだと。
あの誇り高い女が、自ら老醜を晒し己の存在価値を否定してまで失いたくなかったのは、
少将だけだったのだと。

今も美しいのだと地団駄を踏んだ小町が、自分は醜いのだと足を踏み鳴らす。
同じ行為のもとに行われる、これは大転換だ。

自分を貶めてまで少将を逝かせたくなかった。
それが小町の愛の形。
きれいと思ったらきれいと云うさ、少将のあの言葉は、惚れたら惚れたを貫くさということ。
譲らず、命を捧げる、それが少将の愛の形。

このあたりまでくると人物は渾然一体となって、くるくると出たり消えたりを繰り返す。
小町は老婆になり老婆は小町になり、それは少将と詩人にも言える。


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気がつくだろうか、この「僕たち」は、“詩人と少将” でもあるのだ。

男の恋は百日目に果てる。
女の恋は、百一日目から始まるのに。

二つのあいだにあるものは、永遠に橋のかからない嘆きの河なのだろうか。



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おそろしい皺だらけの99歳の乞食婆が、なぜ「美しいひと」に見えるようになったのか。

鹿鳴館での小町は、人々の中で涼やかにたたずみ、3つの独りごとを言う。
噴水の音、輪舞する焔、風にただよう樹の匂い。
小町は「見えない存在」を感じている。

目には見えないけれどそこに確かにあるもの、それは忍ぶ恋の在りようと同じ。
見えない中にこそ真実がある。

「詩人」とは、まさにこの見えない真実を言葉に置き換える者。
小町の心を通して、詩人は世界を構築していく。

同じものを感じ、同じ感動を共有できる感性は、俗悪な鹿鳴館の人々とは根本が違う。
恋人たちの陶酔を理想としている詩人は、たちどころに小町の世界観に魅了されていく。
詩人の心の目が小町という「女の魂」の美しさを見つけたのだ。

小町の美は見た目に捉えられてはならないもの。
それを考えるとこのホンは凄い戯曲だ、俳優の魔法というものを信じているのだから。

小町は、美人女優はやってはならない役なのかもしれない。
容貌の美しさが観客から「見えなかった真実」の発見を奪ってしまう危険を生じるからだ。
美人に化ける魔法を持ったものが必要とされる、稀有な役だ。

ところが、ここにはもう一つ大きな仕掛けがある。
小町の魔法を客席に発動させるのは、実は詩人役のほうなのだ。

老婆が絶世の美女に見えてくるかは、詩人役の力量・陶酔力、恋情にかかっている。

小町の美しさは、詩人と彼を通した観客の目の中に甦る。
そここそがこの戯曲のキモなのだ。
詩人が恋のために死ぬ説得力は、小町に本気で焦がれることで生まれる。

小町を、命を懸ける価値のある、唯一無二の美しき存在に仕上げる。
それが、詩人役に課された最大のミッションだったのだ。

やはり MISHIMA だ。
彼はどこまでも男の力を信じ、男の世界を普遍にまで広げて見せた。

火のように燃え上がる恋を演じきる。
詩人と老婆とこの物語の成否は、そこにかかっている。

この作品の主役は老婆ではない。
詩人だ。




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今月に入ったところで引いた風邪が驚くほど悪化し、三日も高熱が続いたため、
先週の教室は、開講以来はじめての全クラス休講となってしまった。

月末には夏講座は終わっている。
地方公演に向けて稽古が始まる。

今年の夏は、とても短かった気がする。
たのしかった。。

この秋は、どんな彩になるのだろう。
どんな想いを、たわめることになるのだろう。

明日からの二週。
心残りのないように。

豪奢でさびしい、忍ぶ恋に、
よりそいませう。
よりそいませう。









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2016年09月04日

百年目の約束…

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第7週、詩人の心情に圧巻の新解釈が出た。
金曜クラスの26歳の男性受講生によるもの。

第6週の具体的なエチュードをもとに、解釈の更なる深みに到達することができ、
その表現にも思わぬ飛躍が起きた。


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彼いわく、少将は小町とのワルツの初めから、絶望しているのだと言う。
なぜなら、“その時”に押しつぶされそうになっているから。

少将の頭の中では、「今日が百日目」という思いが何遍も繰り返されている。
それを小町は敏感に察する。


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この解釈なら、「ご挨拶ね」は少将を軽くなじる台詞になる。
会話は初めから、どことなし不穏なズレを生じさせたまま進んでいくのだ。

踊ることで互いを感じ合い、“その時”へのプレリュードに浸る二人のもっとも幸福な時間、
であるはずなのに、絶望とはこれいかに?

少将にとっては今が頂点、百日自分を突き動かしてきた憧憬があまりに膨らみすぎて、
実際に小町の裸を見たら落胆するところにまで、もはや行っている。
しかし時間は刻々とその時に向かい、このままでは次の段階に行かねばならなくなる。

少将は小町を抱きたくない。
今の居心地が凄くいいから、延ばしに延ばしてラストシーンを迎えたくない。
「二人は幸せに暮らしましたとさ」のハッピーエンドのその先に今のこの幸せはない。
お伽話の王子はたぶん1年でシンデレラに飽きる。

思いを遂げたくない。
一つ一つクリアしていく寂しさ、怖さ。
もう百日欲しいぐらいの気持ちになっている。
ゆえに、何かするごとにテンションはだんだん下がっていく。


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少将はこの日の最初から、これを確認したかった。

それが確定すると、思いはもう死にたい死にたいしかなくなる。
ここで死んで百年後にまためぐり逢えば、今のこの時を永遠に繰り返すことが出来るから。



ここまで聴いて非常に驚いたのだが、このあとエチュードをやってみて更に驚いた。
どの台詞にも実感がこもっていて、芝居がまったく通っているのだ。

小町は必死で引き止めるしか手がなくなり、諍いも自然、説教めいた強い口調に。
小町をキープすることが出来なくなり、瞬間的に老婆とコロコロ入れ替わることになる。
目をおさましというシーンの熱量も、確かに物凄いものになった。

そうして少将は、子供のように目をキラキラさせて明るく果てて行くのだ。


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小町は置いてけ堀のまま、何がなんだか分からないまま「もう百年!」と叫ぶことになった。



恐るべき新解釈。
徹頭徹尾少将のエゴに貫かれた、相手不在の物語。
ぶっちゃけ若者の恋愛離れはここまで進んでいるのかと、26歳の感覚に戦慄した。(笑)

しかしこの解釈の片鱗は、実は先週すでに同年代の女性受講者からも出ていたのだ。
別に恋愛至上主義ではないが、相手とドロドロに溶け合う感覚が忌避されているようで、
役者としては一度ぐらいはそんな経験もしておいてもらわないとと、チト心配になったのは、
閑話休題。
まあね、今、恋愛さえもしづらい時代だもんね。

『お踊りあそばせ…』 で、小町が女にならないと少将が阿呆に見える分析がなされたが、
この解釈ではその逆の現象が起きる。

この解釈のままだと、小町は少将に対して憎しみすら感じかねない。

少なくとも呆れ返るのは必定、惚れて100日通ってきたにも関わらず何だそれは、と。
女ごころからすれば、そんな男のために百年待とうなどという気にはまったくなれない。

ゆえにこれでは物語は成立しないことになるわけだ。

この作品は果たして、片側が徹底的に置いて行かれる物語ということでよいのか。
通い合えぬまま永遠を繰り返す男女の物語・・・ならばこれはなんのための繰り返しか。
小町は亡者に取り憑かれたみじめな犠牲者、そういう物語なのか。

観客の感動はどこに生まれるか。

自分の解釈が通ったあとに必ず検証しなければならないのは、この部分だ。
何度も言うが、演劇は観客のものなのだから。



それはそれとして、くだんの26歳は、しかしこの解釈で飛躍的な進歩をした。
台詞のすべてに自分の思いを通すということは、初めての体験だったかもしれない。

通る、ということはそれほど遠い道のりなのだ。
彼はまったくブレずに読み通した。
声音、間合い、表情、エネルギー、どれを取っても非の打ちどころがなかった。

よかった…1年かけてここまで来た。
もともとポテンシャルは高かったのだが、その出し方をようやく掴めたのだ。
彼も、半信半疑のまま胸の昂りを押さえられない様子だった。

この実感を今後の基本としてくれることを、切に願う。



が、しかし、これはあくまで初めの一歩。
芝居づくりのスタートラインにやっと立てたということ、問題はここからだ。

次にすることは、まず少将と自分の相違点を見つけることだ。

少将は参謀本部の軍人なのだ。
その仕事は、命令とあらばすぐさま命を差し出すこと。

ゆえに、軍人に岡場所(遊廓)は付き物。
彼らにとっての女は、刹那の慰めをくれる女郎か自分の名誉を守ってくれる妻のみ。
当然、少将も小町と出逢うまでにあまたの女を知ってきた。(他の女たちという台詞もある)

そういう成熟した男が、たとえ小町と言えど今さら女の生身に幻想を抱くものだろうか。

少将は、国への忠誠を捨てられるほどの本気の相手と出逢ってしまった。
在ってはならない恋をしてしまった時点で、少将は軍人失格になったとも言える。

小町にしても命懸けだろう、百夜通いは国より自分を選ばせたに等しい行為なのだから。
どこかでは目が覚めると思っていたかもしれない、他の男たちのように。
しかし深草はついに通い遂げ、孚(まこと)をくれたのだ。

そこで次に考えるべきは、女を百年も待たせることが出来るパワーについてだ。

なぜ小町は百年も待てるのか?
何が小町をそうさせているのか?

身も蓋もない言い方をすれば、少将は小町にどんな飴玉を与えたのか。
更に言えば少将も、飴玉を与えられたればこそ今死にたいとまで思うようになったのだ。
それは何なのか、二人はどんな飴玉のやり取りをしたのか。

ここを理解して初めて、物語の体現者(俳優)となれる。
ここを逃したままでは、単なる独りよがり、そも芝居にならない。

相手を動かす。

自分の何が相手の心の動きを引き出し、次の台詞を言わせることになるのか。
独りで芝居するな、とはそういうことだ。

これが分かってくれれば、彼は安定した芝居力をものにすることが出来るだろう。



この奇跡の進歩の目撃者が僅かだったことが惜しまれる。
人の成長を目の当たりにすることは、そのまま自分の成長をも促すことになるのだから。

しかしまあ、そんなものさ。
縁のものなのだ、こういうことは。
思わぬ少人数になったからこその集中が生み出した奇跡だったことも確かなのだし。

一言の発言もなく終わった日でも、どんどん掴んでいっている者はすぐに分かる。

ヒットを飛ばすために100本のファールを打てるか。
ものづくりの基本はこの辛抱にある。
すべて自分次第なのだ。

面白い現象に気づいた。
彼のこの解釈を月曜クラスで紹介したところ、女性受講者はドン引きしたのだが(笑)
ドン引きはつまり死と同じことなのではなかろうか。

男のエゴを目の当たりにすると、女の中でその男は死ぬ。
まあ、逆もまた然りだろうが。

少将のエゴは激烈だ。
100日女をその気にさせておいて気が変わったと置き去りにするのだから。

ここまで深堀りしてきて、あらためて思う解釈の柱はこの2本。
少将はなぜ気が変わったのか?
小町はそれでもなぜ待っているのか?



□□ READ by Yamagishi □□

初めから読み直してみると、そこかしこに重要な言葉がまぶされているのに気づく。


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物語全体から読めば、蜘蛛の巣よろしく定点で網を張って待っているのは老婆の方。
だが詩人の意識は逆、ある晩から老婆が目の前をチラチラするようになったというもの。

以前、男友達が恋愛談義の中で、自分の視界の中に入ってくる女を意識するようになる、
と言っていたことを思い出した。
男って本当に目の前のことしか見えてない(笑)

が、老婆が「決まった時刻に」「このベンチに」来るのは確かなのだ。
夜、ね。


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詩人が俗悪だと言っているこの情景を、少将は再会の場所に指定する。


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少将にとっては、小町とのこの場所はサンクチュアリ。
聖なるめぐり逢いの神殿なのだ。

すると老婆のこの台詞が、逆説的に響いてきたりもする。


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小町はきっと、意に染まぬ相手だったとしても百夜通いを告げる。
まるで馬の人参のごとく、景品のごとく、身を差し出して男の本気を確かめる。
ということは。
百夜通いを果たした相手がタイプではなくても、運命と受け入れ抱かれたのだろうか。

いや、それはない。
女が表立って咲き誇れた鹿鳴館時代なのだ、百夜通いの前に小町は男たちを吟味できる。
そのさなかにも、この百夜目のように何度も男たちと会える。
意に染まぬ相手の熱を冷ますことも、小町ならやすやすとやれただろう。

逆を言えば、これと感じた相手の火を焚きつけ続けることも出来たのだ。
そうして越えてきた男になら、一緒に死んでくれと言われればいつでも従えるほどの情熱を、
きっと小町も持ったろう。

百夜通いを果たした男は、他にも何人かいたはずだ。
彼らは百夜目のその時に感極まり、みな同じことを言う、「あなたは美しい」と。
そうして小町を手に入れる前にみんな死んでいった。

老婆は詩人に、自分が美しいことを認めさせようとする。
鹿鳴館へのタイムスリップはその証明のために起きたことだ。
それほどまでに認めさせたかったことを、しかし小町ははなから否定している。

何度も繰り返された結末なら、小町の男への対応はいい加減ドライなものにもなりそうだ、
だが小町は全力で 「美しい」 と言いたい少将の意志を止めようとする。


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この少将の台詞にくだんの26歳はシビレていた、俺は思っても言えないと。
確かに、軍人らしい、生きざまに覚悟のある台詞だ。

ということは、命の瀬戸際に立たされ続けているような状態にでもいない限り、普通の人生
の中でこんな潔さを発揮するのは無謀に等しいとも言えるのかもしれない。

少将には守るべきものがないのだな。
守るべき唯一である小町が、男のこの決然たる断定を引き出してしまう皮肉。


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退屈。
それは少将が忌み嫌い、そのために死んだもの。
その顔を、小町は好きだと言う。

多くの人間は退屈なのだろう、かく言う自分もそうだ。
こよなく、何かキラキラした邂逅を求めながら、もはや確かに退屈をあきらめ始めている。
もはや確かに、邂逅など訪れ得ない自分になったのではと。

ふと思った。
小町が欲しかった言葉は、思いは、もしかしたら 「一緒に生きてくれ」 …だった?



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ちょっと限界。
実は先週、映画の撮影現場で体調を崩したのが大風邪になってしまった。

こんなにやり損なったのは教室を開いて以来初めて、
記事作成も四日かがりに。
滴り落ちる汗と痛みの、なんと憎たらしいことか…
ああ、くちびるが乾く、明日のクラスまでにどうしても治さねば。

この熱が引いたとき、すべての煩悩も消え落ちていればいいのに。
しかし小町はそれを引きずって生きつづける、
百年、また百年と。

タフな女だ。








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2016年08月25日

めぐり逢えて…

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第5回は波乱の週だった。

金曜は予定外の少人数クラスとなったのだが、おかげでじっくり解釈を深められ、
イメージが飛躍的に広がるという思わぬ果報を得た。

土曜も少人数だったが懸案のワルツのエチュードができ、
相手の存在が自分の台詞に実感を吹き込むいいクラスになった。

そして週一番の大所帯である月曜クラスは、なんと台風のおかげで休講に。

金曜土曜の宝石のような輝きだった時間と、それを持てなかった月曜と…
先のモチベーションにどう繋がっていくのか、次回が楽しみである。


土曜のエチュードは山岸もやった。
ホンを持たないそれぞれの手でワルツの形を取る。
それはこのホンの随所にある「・・・・・・」の意味を身体で感じ取ることになる。


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今日が百日目の前の「・・・・・・」 
これは大事な間なのだが、読みではほとんど取れていなかった。

身体を使うと、不器用なジョークに対する小町の反応が少将に幸福感をもたらし、
続く台詞に感慨がこもることになった。
その感慨を受けて、次の小町の「それなのに」後の間にも自然と媚態が入る流れに


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「帰りましょうか」で背後に向かおうとする小町の手を、引き止める動きが出る。
この動きが生まれたことで、手をつないだまま佇む動作までが自然に繋がる。

「中休みの時刻」 これは大事な台詞。
この時点で晩の8時か9時頃か、百日目の今夜はあと数時間しかない。
互いがそれを実感する言葉。
ゆえにこの「・・・・・・」にも独特の空気が生まれる。


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「飽きる。」それは女にとってもっとも聞きたくない言葉。
女は永の月日をかけて、得られた愛の灯をその手で守り続けようとする生き物だから。
男の本音を許せぬ小町ではないが、なればこそこの期に及んでの気怯れはむごい。

「そんならやめて…」で握られていた手を抜いて、ベンチから立ち上がると、
思いのほか強い力でその手をまた摑まれ、先に進めなくされる。
と同時に、「それはできない」という声音の切迫とベンチを立つ動きの鋭さにたじろぎ、
思わずフリーズする。

正面に立った相手のまなざしに捕らえられて、「お気の進まないものを…」が揺れた。
この当惑は、相手の熱情の激しさによって引き出された意外な感情だった。

鋭さや揺らぎといった反応のニュアンスは、相手の身体を通したほうが発見が早い。

そうしてこのエチュードで得られた、最大の謎解きがこのシーン。


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「ええ、何とも思いません」
これはドライな、恋に期待などしていない女の言葉、
女王のように、男たちが自分を獲りにくるのを睥睨している言葉、、

それ以外の解釈が見つからず、しかし何かピンと来ず、首をかしげてきたのだが、
わかったのだ。
「あなたは平気なのか、俺に飽きられても」 というニュアンスが感じられたことで。

飽きる、あなたがわたしに飽きる、飽きられても…
「それでもいい。飽きられても、わたしはずっと、あなたを愛し続けます」

突然、湧いてきたのだったこんな思いが。
これには自分でもビックリしたが。
自然に、このプレイガールめかした言葉の裏側に潜む小町の真実の思いが、
胸に広がったのだ。

ドライではない、むしろ逆。
こうなると、これがこの作品中でもっとも情熱的なせつない台詞となる可能性が出てきた。
愛していると言うより強い、ひとすじの、小町の少将への想いは、
こんな何げない台詞の中に隠れていたのだ。

すると、次の少将の「今すぐ死んでもいい」のニュアンスが変わるかもしれない。
あなたに飽きるぐらいなら、今のあなたを焼き付けて「今すぐ死にたい」に。

そう、このシーン、リードを取るのは徹頭徹尾、少将の方なのだ。
この戯曲は、ところどころでガン!ガン!と階段状にエネルギーのレベルが上がるのだが、
この「死んでもいい」の台詞も、もう一速ギアを入れる大きなポイント。

少将の恋に憑かれた激しさが出れば出るほど、「俗悪だわ!」がぶつけやすくなる。
そのエネルギーがまた、庭木が海のようにざわめき出す帆船の長ゼリへと繋がっていく。

「飽きられてもいい。ずっと愛するから」
この解釈は、この先の「美しい」と言わせまいと抵抗するシーンにも確実に響いていく。

少将をやった受講生が受け取って仕掛けることの出来る人で、予想以上にヴィヴィッドな
化学反応が生まれため、熱量の基準値が出来たことがこのエチュード最大の収穫となった。


金曜クラスで出た解釈 〜イメージの飛躍

鹿鳴館に出てくる男女は、ある意味「陰陽師」で言うところの式神(しきがみ)。
もちろん小町は術師ではないのだからあくまで個人的イメージだが、と話したら、
受講生からも面白い解釈がたくさん飛び出してきた。


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少将の台詞はここから急激に熱を帯びる。

「今僕は、」 「もし今、僕があなたと」 「今僕の頭に」 と、
この短い会話の中に「今」が三度も。
少将はこの突然降りてきたひらめきに昂っていく、まるで神の啓示を受けたかのように。

この流れを金曜の受講生たちは「転生」への意識と捉えていた。
少将自身は夢物語として語り始めるのだが、無意識は運命を悟り、
悟ってしまえばそれは確信へと変化し、あとは坂を転がるようにその一点へと駆け下る。

それはあまりにも急激な変化。
恋をすると人は鋭敏になり、予感が現実になるようなことはよく起こるが、
いよいよその時という今になってこんな転変をすることになろうとは。
人は崖っぷちに立たされたときに運命に出くわす。

この流れを転生と捉えると、以下の謎の会話が違うものに見えてくる。


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受講生の一人が、「小町は正倉院、少将は伊勢神宮」と例えた。

古めきながら千年以上その存在を保たれてきた正倉院と、
式年遷宮で20年ごとに生まれ変わる伊勢神宮。

「私は年をとりますまい」「年をとらないのは僕のほうかも」って。
大爆笑の分かりやすい例えだった。

まあ実際の演技に乗せるには難関だが、少将の演じ手には台詞の一助となるイメージだ。

更にここの解釈はもう一つ、演技的にはこちらのポイントの方が高いかもしれない。
「年をとらない」ということは、今と変わらないということ。
イコール、いつまでも今の気持ちのまま、あなたを愛し続ける、その比喩だと。

こうしてみると、このホンには「永遠に愛する」という主題が通っていることが分かってくる。

関連から、望みが叶えばあなたに飽きる、飽きたくないから「死んで成就させない」
永遠の愛にするために、という解釈も出る。

この説を聞いて思い出したのが、フランス映画の『髪結いの亭主』。
今もって山岸のベスト1で、自分の年代が進むにつれ解釈が変わる名作なのだが、
これはぜひ観ておくといい。
私はこの映画で、究極のエゴは最大の愛の証なのだと知った。
(笑)まあ観れば分かります。

面白い説がもう一つ。

小町は百年、本物を待っている。
この男は本物の少将か、それらしき人が現れると毎年鹿鳴館の幻惑でお試しをしている。
本物の少将は、美しいとは言わない。
それで二人は昇天していける。
ラストシーンの小町のいきなりのドライ感は、本物じゃなかったから、というもの。(笑)

これだと、巧い役者がやればコメディ風味の作品にできるかもしれない。
いや実際、悲恋に向かって突っ走る線と共に、特に前半に笑いの要素をまぶすのは、
上演には欠かせないポイントだ。
それにつけても、人々を酔わせる止まらないロマンスはしっかり作っておかねばなのだが。



□□ READ by Yamagishi □□

百年ごとにめぐり逢う、それを二人の宿命にしたのは少将だ。

「お墓の中で会うのでしょうね」と言っているのだから、
鹿鳴館の時点では、小町はごく普通の人生を送るものだと思っていたのだ。
それを思うと、小町のこの台詞は憐れだ。

百夜通いを課したのは小町、ゆえに関係の主導権は彼女にあるように見える。
詩人も、あたかも老婆の哀れな餌食のように見えるが、実際は逆。
少将の方が小町に、永遠に自分を愛し続けるという呪(しゅ)をかけたのだ。

恋は、より強い呪をかけたものが勝者となる。
けれど少将は分かっているのだろうか、その呪に自身もかかってしまっていることを。
小町がいる限り、少将は転生の宿命から逃れられない。

小町はどうしたら死ねるのだろう。
あのとき少将が、詩人が、「あなたは美しい」と言わなければ、
小町の魂は散華できたのだろうか。

いや、小町は美の化身、この国に息づいてきた「美」そのもの。
美は美として存在しているにも関わらず、決定的に不可欠なものを必要とする。
讃美者の存在だ。
誰かが美しいと認めなければ、そこに有りながら無きものになってしまう、それが美。

だから小町は「美しい」と言ってほしいのだ。
美である以上、それを求めるのもまた宿命なのだ。

美は、自分からは能動できない、ただそこに在るだけ。
讃美を受けとめて、変わらずそこに在るだけ。
まるで植物のように、花のように、美しいという男のため息を受けて揺れるだけ。

それだけでいいはずなのに、小町はその言葉をふさごうとする、
言えばその人が死んでしまうから。

小町は、自分が美しいと言われることより、相手に生きてほしいと願っている。

小町が本当に欲しかった言葉は、思いは、何だったのだろう。
たぶん小町は、それを待ち続けている、百年ごとに。

「あなたを愛している」…なのか…?

男にとって、愛していると言う、それはどれほどの重みを持つものなのだろう。
心から、夢のようにうっとりと、美しいと言われても、
それが何になろう。

「愛している。百年待っていてくれ。必ず帰ってくる」

そう言ってくれたなら、百年なんていくらでも待てる。
愛していると、言ってくれたなら、小町の命も詩人と共に散れたのかもしれない。
けれど男は美しいとしか言ってくれない。

呪を解くひと言、それが「愛している」という言葉なのだろうか、
それともそこから、新たな呪がかかるのだろうか。

男にとって「美しい」という言葉は、「愛している」と同義語なのでしょうか。
女はそれを理解できないということなのでしょうか。

男にとって、美しいと言う、それはどれほどの重みを持つものなのだろう。。

あのの実、あの吸殻で、小町は占っていたのかもしれないと、ふと思った。

相手の気持ちが分からないとき、自分の未来にふるえるとき、女は占いをする。
独りになると御し切れなくなる秘めた吐息の濃さに負けて、思いは指をあやつり出す。

あの人は今どうしているだろう、わたしのことを考えてくれているだろうか、
わたしに気持ちを抱いてくれているだろうか…
あれは何だったの、なぜあんなにやさしく包んでくれたの、あのときあなたは、
何を感じていたの…
囚われて。そのひとに。女は自分の恋を占う。

しかし小町は、百夜通いで少将の気持ちは知っているのだ、胸が痛くなるほどに。
小町は幸せだ。
九十九夜の愛に包まれて、小町は信じている。
やがて来るその時に、身も心も少将と溶け合う、一分の隙なくひとつの魂になる、
ただそのことを、九十九夜、信じて来られのだ。
なんと幸せな。
なんと賢い女だろう。

しかし小町にも分からなかったのだ。
男は必ず果てるものだということを。
果ててのちの余韻には、男は生きられない生き物だということを。

そうして小町は占いはじめる。

いつ来る。
もう一度めぐり逢う、その時は。
あなたは。
いつ来る。
わたしが待っている「それ」は、
いつ来る。
今夜? あした? あさって…?

百年、小町は吸殻で占う。
答えなど出ないと分かっていながら、夜毎、夜毎、吸殻を繰(く)り続ける。
そうして待っている。
そうして、愛している。


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こんなに多くの人間がいるのに、出会える人はなぜ限られているのだろう。
真昼から降り始めた時間を歩み出すと、出会いの重さは若い頃より沁みる。
ひとつひとつに意味があるのだと。
いい人。
わるい人。
自分とて、誰かのわるい人になっているやもしれないのだ。
よしんばいい人として出会えても、瞬時にそれが反転することだって、
呆れるほどしょっちゅう、起こるのだ。

できるなら。
愛し合いたい。
けれどそれはもう、自分を呪にかけていることなのかもしれない。
呪は、しかし、まるきり手離すには甘美すぎる。

この誘惑がなければどれだけラクかと思いながら、待ってしまうのだ、
めぐり逢いを・・・

このホンに向かうと、いらんことばかり考えていけません(笑)








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posted by RYOKO at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 小町という女 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月18日

お踊りあそばせ…

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軍服での舞踏シーンのイメージを探していてふと気づいた。
少将は軍人、つまり死ぬことが仕事の人間なのだ。

恋のために死ぬ。
確かにそれは軍人としては文弱の徒に成り果てた姿であろうし、
その組織の人々から見れば、少将の選択はそれこそ噴飯ものの“俗悪”の極みだろう。

エリート集団である参謀本部の少将が一人の女のためだけに命を捧げた。
これは想像以上のかなりな異変なのだった。

先週は表現テクニックについての具体的な講座だったため、内容はここには書けず。


□□ READ by Yamagishi □□

今夜、今すぐ死んでもいいという少将を、小町は必死で引き止める。

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生きるということを、「充実」という言葉に置き換えてみると。

小町が言っていることは「死のために人生を充実させるわけではない」。
これは、馬は人参がなくても駆けるものという台詞とイコール。
生き続けることに意義を見いだし、まるで「命」自体として発言しているよう。

一方で少将は、「死を選べば充実して生き切ったことになるのかもしれない」と言う。
至高の絶頂に到達できる瞬間を得るためなら死ねる、という思い。
命をどう使うかは自分が決めることと、あくまで個の中で生きている。

小町は線を生き、少将は点に生きようとしている。
これはそのまま男女の性の特徴にも通じつつ、小町はどんどん焦燥していく。

百夜という長い時間を経て身も心も預けようと決めた、その男が、
いつのまにか自分を乗り越えて遠くへ行こうとしているから。
勝手に置いていかないでという悲鳴。

だから男がもっとも嫌う“俗悪”という言葉で断定し、
絶頂体験という死の誘惑から引き戻そうとする。

このあたりは、ただの女と哲学を持った神に近いような老婆とが渾然一体となっている。
それは、女の子に相手にされず大恋愛に憧れてきた弱虫の詩人が、
万民のための命として生の瀬戸際を見続けてきた男の中の男である少将と同化していく、
それと同じ現象。


小町はやはり「女」でなければならない。
動画サイトで、徹頭徹尾ドライにブレない老婆が演じられている映像を見たが、
それはやはり違うと思ったのだった。

小町の台詞はすべて言い切りなのだが、気持ちもこのままブレずにやると、
詩人が阿呆に見えるのだ。
説教したのに言うことを聞かず、勝手に滅びていった愚かな男。

これでは小町が何のためにあんなに必死に引き止めたのかがまるで分からない。
詩人=少将に納得の魅力があればこそ、老婆も小町も言葉を尽くせるのだ、
あんなに取り乱してまで。

この話は小町が女としてブンブンに乱されなければ作家の本当の意図が伝わらない。

脆弱なかぼそい詩人に身を預けようというまでの夢を、小町も見るのだから、
老婆が絶世の美女になったように詩人が水も滴る「男」に変わる、
そうなって初めて男女の性差、人間の生き様の違いが浮き彫りになる。
それがこの作家の仕掛けなのだ。

彼女は『マクベス』の魔女ではない。
預言者然とした客観芝居は物語の悲劇性を損なう。
俳優は台詞の裏をどう掻くか、どんなリアルを立ち上げられるか、
そこから離れてはならない。


鹿鳴館シーンで踊る曲として個人的に浮かぶのは、
ショスタコービッチの“セカンドワルツ”

この動画は、ワルツというもののめくるめく感じがよく編集されている。



こうしてみると、ワルツとはなかなか激しいものだ。
これだけクルクルしていたら、相手だけを見ていないと転んでしまう。

相手の身体のリズムに集中していくうちに、「気」も合ってくるわけで、
クルクルクルクル…酔ったようになって、
いやがおうにも二人だけの世界に埋没していくことになる。

もっとゆっくりとした優雅なものだと思っていたが、これはほとんど魔術な踊り。
詩人が少将に変わってゆく仕掛けとしてはパーフェクト、そのうえに、
フォーマルの極みであるこのダンスには、整え抑制しようと堪えるセクシーさがある。

それは百夜通の忍耐を思い起こさせるものだ。
剥き出しの情熱をぶつけあうタンゴではダメなのだ。
作家はこのへんの感覚もよくご存知だったわけだ。



さて、そんな、この作品最大の見せ場を体感してみようという、
無謀にもほどがある講座が(笑)明日からはじまります。

台詞の間があくことなんて気にしなくていいから、相手を感じることを一番大事に、
こんなシーンをさくさく喋ったらむしろワタシ怒ります。

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(笑)。






posted by RYOKO at 23:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 小町という女 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする