2016年08月07日

待ちわびて…

komachicap11c.jpg

大勢でする解釈の意義は、未知の見方を得られることにある。
他者との感覚の違いを知ることが自分の解釈を生み出していく。
逆に、自分にはない感覚を入れることでいかに瑣末に固執していたか分かったりもする。

それは相手役との響きあいから到達できる、独りで考えていてはわからなかった世界。
稽古の現場では積み上げた自分のプランを一旦捨てて向かえと言った理由はここにある。
芝居は総合芸術、どこまでも相手あっての物種なのだ。

相手からもらう、人の考えに染まってみる。
この柔軟性が、どんな現場・相手でも化学反応を起こせる魔法をもたらす。

春のロミジュリクラスではその化学反応を体験したわけだが、

このホンにも同じ魔力が忍んでいる。

ワルツを踊る。
二人手をつないだまま佇む。
手を取られて慄える小町。

この3シーンがその場所。
このとき、二人の手には何が起きているのか。
手はどんなことを語り合っているのか。
それはその二人だけの公然の秘め事といってもいい。

身体はあなどれないものだ。
相手の肉体を感じることで思わぬ感情が吹き出して来たりする。
たとえば相手の手の熱さ、力、湿りけ、指が伝えて来る意志。

こういうものを無視しては本当の解釈には至れない。
動作を実際に相手としてみると、驚異的なエモーションが生まれてくる。
これがケミストリー。

忘れてはならない。
ト書きに書かれていることは動作。
台詞を追うだけになりがちだが、動きをイメージすることで思わぬものが見えて来る。
解釈とはイメージ力を喚起することなのだから、何よりのヒントはト書きにこそある。


演じ手の解釈はあくまでドラマに向かうことにある。
物語のどこに感動をおぼえたか、その感動をどうやって体現していくか、
そこに解釈の肝がある。

その解釈にドラマはあるか。

観客はその解釈に感動できるか。

俳優はそれのみを追求し、決してそこから離れてはいけない。
もしも疑わしくなったら、それはまだプロセス、あなたの真実の解釈ではない。



□□ READ by Yamagishi □□

老婆が拾い集める「吸殻」に対して、受講生が画期的な発見をした。
これは何かのメタファーに違いないとは、講座の中でも出ていたのだが、
小町伝説に当たってみて、彼女は思わぬ拾い物をしてきたのだ。

古の男と女は歌のみで相手と往還し、実際に会うのは結ばれる際(きわ)が初めて。
暗い灯火の元なのだ、顔を見るのは下手をしたら事後の朝になってからかもしれない。
つまり、百夜通いはおたがい未だ見ぬ人とのあいだでおこなわれていた。

小町はいったいどうやって、少将の九十九夜の訪れを知ったのかが不思議だった。
下人にでも見張らせていたのか…しかしそんな無粋は物語にふさわしくない。

何かあるはずと思っていたのだが、あったのだ、やはり。
少将は真夜中、小町の家の門まで来ては、木の実を置いて帰っていたのだ。

朝になって、牛車を停める榻(しじ)の上に、ぽつんと置かれた榧(かや)の実のひと粒。

それを手にして、小町は夜毎の訪れを知っていた。
ゆうべも来た。
ゆうべもまた。
ゆうべも。。

の実は増えていく。
籠に半分にもなった頃には、少将の思いはきりきりと胸に迫るようになっていただろう。
そうしてそれは、いつしか小町の中でも祈りにも似たものに変わっていったのではないか。
来て、百夜。
わたしのもとへ、必ず、無事に。。

百夜通ってくれたなら、百夜の真をくれたなら、わたしは喜んであなたに抱かれる。
これまでの誰もが果たせなかった愛の証を、あなたが立ててくれるというなら、喜んで、
初めてのわたしをあげましょう。
だからお願い、無事に、わたしの前にあらわれて。。

そうしてその夜が明けたとき、榧の実は無かったのだ。

小町はどれほどの衝撃を受けたろう。
ここまで来て引く、そんな男だったのか、そんな男に私はこころを預けてしまったのか。
悲しみに取り乱れながら、小町はすぐさま別の予感にハッとする。
何かあったのでは…
何かがあのひとに起きたのでは?

閉ざされた雪の中でか、流された川下でか、貴人の遺骸がみつかったと聞いて、
小町は駆けつけたにちがいない。
人前に姿を晒さぬ高貴な身分の女が、止むにやまれぬ思いのままに。
けれど小町は少将を見たことがないのだ、いったいどうやって分かるというのか。

榧の実を握っていたのだ。
その遺骸は、しっかりとその実を握りしめていたのだ。

やっと逢えた、そのひとが。。

これほど悲しい恋があろうか。

待ち針。
糸が通せない針。
それは本当は、小町針と呼ばれていたのだという。

男たちを袖にし続けた小町には穴がなかったのだなどという口さがない噂が落した、
針の名前。
しかし。

永の後生を、小町は少将を弔うことのみに生きたという。
少将が残した榧の実を、通い路の道の辺にひと粒ずつ植えて。
榧はまたしかし、大樹になるまで300年もかかる樹なのだそうだ。

小町が住んだとされる京都山科の随心院までの道は不成就道と呼ばれ、
受験生や恋する人々は今でも決して歩かないのだという。

komachicap12.jpg

深草少将は百夜通いの冷たい暗闇のうちに病み疲れ、であればこそ尚いっそう、
恋に憑かれていく。


恋をして、まるでシャガールの絵のように地上から浮き立つ恋人同士の在りようは、
誰もが憧れるもの、だがしかし老婆はそれを死んだ姿だと言う。

老婆にとっての「2本の足でしっかり踏みしめる」現実は、100年少将を待ち続けること。
待つことが老婆のまごうことなき現実。
浮かれず、呼吸をしながら、ひたすら待ち続ける、それが現実。
それも恋。
それが恋。

恋の時間は一瞬の夢、甘美なメロディが消えれば急に我に変える。
しかし小町の恋は夢ではない、今待っているそのことが現実であり、
小町の現実は恋そのもの。
一瞬で消える儚い夢ではない、永遠に終わらない現実、それが小町の恋。


小町の年齢はいつまでたっても99歳。
百年経とうが千年経とうが99歳で止まっている。

99は百夜通いが途絶された数字。
だから小町はそこで止まっている、心はそこで死んでしまった。
だから小町(老婆)の現実は、
詩人からは信じがたい「生き甲斐のない」希望や憧れの光がいっさい射さない時間。

老婆はそれでいいのだ、九十九夜ときめきの中で生きたのだから、
それ以上のものなど起こりうるはずもないのだから。


komachicap06.jpg

小町にとっての奇跡とは、なんであったろう。

百日目からさきの生の甘美は、少将を失った小町にとっては俗悪でしかない。
あの人がこなかった。
あの人が、しんでしまった。。
その夜を境に、小町の心はいっきに99歳の老婆になってしまった。

伝説上の小町は少将に、悪いことをした、なんてむごいことをしてしまったのかと、
悔やみ続けたろう。
その悔恨は、残りの生涯を少将の弔いだけに生きたことと共に、
純化され本物の純愛に変わっていったろう。

穴の無い女、小町、絶世の美女でありながら処女のまま果てた小町。
普通の恋愛が待っていたはずの人生が、
少将を亡くしたことで、本物の純愛という厳しく孤独な道になった。

肉欲の絡まない恋が純愛だとするなら、
その後の小町の弔いに殉じた在りようはこれ以上ない純愛だろう、
対象を失くして尚、残りの生涯を脇目もふらずその人だけ愛し続けたのだから。

それは男にとっての理想ではないだろうか。

以前、『貴方と嘘と夜と音楽』という芝居を書いたとき、
去った男に13年とらわれてしまったヒロインに対して、その男を演じる俳優が、
「彼女は別れてから一度も他の男と関係していないと思う」と言って、
生身の女がそんなわけないだろうが、と女優たちにツッコまれたのだが、
彼はそれでも納得していなかった。

あなたただ一人。
男が求める女の姿はあまりにも身勝手。
それはそのまま、言いたいことを言って勝手に死んでいく詩人の在りようそのままと、
言えなくもない。


多くの男に求められる女は、どんなことを考えるか。

komachicap13.jpg

気づけばあっちの男からもこっちの男からも愛されている。
それはさながらレースの趣。
ゴールにいる自分に向かって、ひたぶるに駆け競ってくる駿馬の群れ。

ゴールがどこにあるのか、何をしてゴールというのかは男には分からない。
女自身にも確かなことはわかっていない。

ただ、日毎、時毎に近づいたり離れたりする男たちの中にいて、
それこそ命を懸けて、「あなたのためなら何でもする」と言ってくれる人が、
その人なのかもしれない。

男は二言を嫌う生き物だ、しかし実際この言葉を口に出せる男はそうはいない。
大人の、おんなをよく知っている男なら尚のこと。
自分の言葉を欺くことが、本物の男にはもっともこたえる。

だからこの言葉は、本気の恋でなければ決して口にはしない。
それを分かっている女は、男を許してやれる、たとえ刹那に終わったとしても。

そんな本物の男揃いになったとき、女はどうするか。
ただじっとそこに居て、男たちの動きを見守るしかないのだ。

ハードなお題をしつらえて、どの男が乗り越えてきてくれるか、
最後まで本気を貫いてくれるか、眺めているより手だてはないのだ。
男は勝ち取るのが性(さが)なのだから。

手に入りそうで入らない、そんな存在は男にとって現実以上の気高さを纏う。
そうして男は本気を傾けてしまう。
場合によっては身の不幸に繋がると分かっていても、納得いくまで止まれない。

百夜通いには何十人という男がトライしただろう。
ある者は三十夜で、ある者は五十夜で、小町の前から消えていった。
人気のない暗闇の中、ひっそりと訪れては榧の実を置きにいく、
それだけを続けるなど、現実を生きる男には馬鹿馬鹿しくなって当然の壁なのだから。

しかし女には、その馬鹿馬鹿しさこそが真実を見る鍵なのだ。
だからこそ、小町は100粒目の、置かれなかった榧の実に衝撃を受け、
永の後生を清い身体のまま、彼岸に生きる存在となったのだ。

ちゅうちゅうたこかいな……

吸殻は榧の実。
数えて、待ちわびる、永遠のループ。

最大の謎である、あの「もう百年!」が、また少し変わって見えてきた。




posted by RYOKO at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 小町という女 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月03日

美しきひとの名は…

komachi01.jpg

夏クラス、始まりました。
ずいぶんたくさんの方が体験にいらしてくださり、なんと嬉しいことに全員が継続に。

フレッシュで華やかな幕開けの中、本読み教室はまた新しい一歩を踏み出しました。


□□□□□□□□

今季のテキストは、一筋縄ではいかない作品。
構造が複雑なため、1ページ目から順を追っての解釈というのができない。

感想を聞くと受講生の興味は、やはり後半のクライマックス部に集中。
そこで出た解釈を基点に、前半部分へと還していく形になった。


 komachicap01.jpg

この台詞に対して印象に残った解釈をランダムに。

キレイと言われる嬉しさは女の本能、言わせることで満足する。
 ゆえに美しいと言わせた後はカマキリのように豹変、相手が死んでも平気。
 この変わり身の速さは女ならでは。

憧れの相手にキレイと言われたら失望する。
 相手にはもっと高いところにいて欲しかったから。
 自分より強い男を求めているのに、降りてこられると恋は死ぬ。
 この男も只の人だったという感覚、男の死はイコール恋の死。

美しいと言われた時から女は歳をとっていってしまう。
 だから言われたくない。
 それでも言われたら、恋の絶頂はその時からもう死んでしまう。

この男と女の会話は精神的セックス。
 美しいと言われることは絶頂、いつまでも浸っていたいから寸止めがいい。
 言われたら後は醒めるしかなくなる。
 それなのに男は欲望に駆られてすぐに言いたがる、絶頂のみを欲しがる。

キレイに見えるが女って汚いよねという作家の目を感じる。
 男の理想が描かれている。
 男の作家が書いたものだなーと思う。

老いさらばえた姿を世界で一番美しいとまで言う男の目線の変わり方が滑稽。
 この老婆は人間の愚かしさ、儚さを引っ張り出す幽霊・妖怪なのでは?
 手管を使って褒め言葉を言わせ取り殺す。
 美しいと言われることがこの妖怪のごはん。

作家は「美」をフリーズさせている。
 戦前の日本が持っていて失くしたものへの恐れ、悔恨を描いている。
 全般的に生と死が意識されている。

一度欲望を抱いたら男は止められない。
 美しいと言いたい絶頂へ一直線に向かうしかない。



□□ READ by Yamagishi □□

この物語には「俗悪」という言葉が9回も出てくる。
作家は「俗悪」ということに何か大きな意味を持たせている、それは何なのか?
舞台設定は「極めて俗悪」=第一行目のト書きからすでに隠しテーマが忍ばされている。

物語の書かれた年は1951年(昭和26年)、クライマックスシーンの舞台は鹿鳴館。
鹿鳴館は明治19年開館。19年前は幕末。黒船来航が明治維新という革命を引き起こした。
然るに昭和26年、こちらもわずか6年前に敗戦から民主主義への大転換が起きている。

この物語には二つの断層が描かれている。
この国が培ってきた文化、歴史、思想は米国によって二度、バッサリと断ち切られた。

小野小町は昭和26年時点でも1100年以上前の時代に生きた、わが国一の美しき人。
千年続いた古(いにしえ)からの美が、アメリカナイズされた近代では老婆と蔑まれている。
作家はこれを隠しテーマにしているのだと感じる。
舞台が鹿鳴館である意味はそこにある。

 komachicap03.jpg

敗戦からたった6年で、あまりにも変わってしまった日本。
命を懸けて守ろうとした国は、かつて愛した美しさを刻々と失くしていく…
26歳の天才作家の心に刻まれた思いは、現代の我々には想像も及ばない。

  花の色はうつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに

―小野小町       

この物語は米国の占領時代に書かれている。
日本が独立を果たしたのはその半年後だった。
ただ、戯曲の読解と作家の思想への共鳴は別物、ここに巻かれてはならない。


謡曲の『通小町』では、愛の妄念となった深草少将の霊が小町に取り憑き、
旅の僧の導きによって百夜通いを再現することで二人は成仏できる。

この物語の老婆にはそれがない。
99歳の老婆はさらにもう100年生き永らえねばならず、宿命のループから抜け出せない。
なぜなのだろう。
この老婆は何かを待っている。
いったい何を? なぜ? 待っているのだろう。

戯曲の読み解きをするとハマる罠は、「物語」を逃しがちになることだ。
まして演じ手なら、イメージの力は常に湧き起こしていなければならない。
この作家が描いたのは、絢爛豪華にしてせつないロマンティックな二人なのだから。

私が想う小町と深草少将の在りようは、この美しい曲がイメージさせてくれる。

  

ここまで甘美な世界に仕立てても、まったく陳腐に落ちない物語。
私はそう読んでいる。

そうむしろ、この物語の甘美に浸った方が数々の謎はきれいに通る。
ひとつずつ解釈を深めるごとに、豪奢でさびしいこのロマンスに戻ってみればいい。



komachicap04.jpg



komachicap05.jpg



komachicap06.jpg



komachicap07.jpg



komachicap08.jpg



komachicap09.jpg



komachicap10.jpg





今週も、前へ、進んでまいりましょう。(笑)





posted by RYOKO at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 小町という女 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする