2016年08月25日

めぐり逢えて…

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第5回は波乱の週だった。

金曜は予定外の少人数クラスとなったのだが、おかげでじっくり解釈を深められ、
イメージが飛躍的に広がるという思わぬ果報を得た。

土曜も少人数だったが懸案のワルツのエチュードができ、
相手の存在が自分の台詞に実感を吹き込むいいクラスになった。

そして週一番の大所帯である月曜クラスは、なんと台風のおかげで休講に。

金曜土曜の宝石のような輝きだった時間と、それを持てなかった月曜と…
先のモチベーションにどう繋がっていくのか、次回が楽しみである。


土曜のエチュードは山岸もやった。
ホンを持たないそれぞれの手でワルツの形を取る。
それはこのホンの随所にある「・・・・・・」の意味を身体で感じ取ることになる。


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今日が百日目の前の「・・・・・・」 
これは大事な間なのだが、読みではほとんど取れていなかった。

身体を使うと、不器用なジョークに対する小町の反応が少将に幸福感をもたらし、
続く台詞に感慨がこもることになった。
その感慨を受けて、次の小町の「それなのに」後の間にも自然と媚態が入る流れに


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「帰りましょうか」で背後に向かおうとする小町の手を、引き止める動きが出る。
この動きが生まれたことで、手をつないだまま佇む動作までが自然に繋がる。

「中休みの時刻」 これは大事な台詞。
この時点で晩の8時か9時頃か、百日目の今夜はあと数時間しかない。
互いがそれを実感する言葉。
ゆえにこの「・・・・・・」にも独特の空気が生まれる。


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「飽きる。」それは女にとってもっとも聞きたくない言葉。
女は永の月日をかけて、得られた愛の灯をその手で守り続けようとする生き物だから。
男の本音を許せぬ小町ではないが、なればこそこの期に及んでの気怯れはむごい。

「そんならやめて…」で握られていた手を抜いて、ベンチから立ち上がると、
思いのほか強い力でその手をまた摑まれ、先に進めなくされる。
と同時に、「それはできない」という声音の切迫とベンチを立つ動きの鋭さにたじろぎ、
思わずフリーズする。

正面に立った相手のまなざしに捕らえられて、「お気の進まないものを…」が揺れた。
この当惑は、相手の熱情の激しさによって引き出された意外な感情だった。

鋭さや揺らぎといった反応のニュアンスは、相手の身体を通したほうが発見が早い。

そうしてこのエチュードで得られた、最大の謎解きがこのシーン。


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「ええ、何とも思いません」
これはドライな、恋に期待などしていない女の言葉、
女王のように、男たちが自分を獲りにくるのを睥睨している言葉、、

それ以外の解釈が見つからず、しかし何かピンと来ず、首をかしげてきたのだが、
わかったのだ。
「あなたは平気なのか、俺に飽きられても」 というニュアンスが感じられたことで。

飽きる、あなたがわたしに飽きる、飽きられても…
「それでもいい。飽きられても、わたしはずっと、あなたを愛し続けます」

突然、湧いてきたのだったこんな思いが。
これには自分でもビックリしたが。
自然に、このプレイガールめかした言葉の裏側に潜む小町の真実の思いが、
胸に広がったのだ。

ドライではない、むしろ逆。
こうなると、これがこの作品中でもっとも情熱的なせつない台詞となる可能性が出てきた。
愛していると言うより強い、ひとすじの、小町の少将への想いは、
こんな何げない台詞の中に隠れていたのだ。

すると、次の少将の「今すぐ死んでもいい」のニュアンスが変わるかもしれない。
あなたに飽きるぐらいなら、今のあなたを焼き付けて「今すぐ死にたい」に。

そう、このシーン、リードを取るのは徹頭徹尾、少将の方なのだ。
この戯曲は、ところどころでガン!ガン!と階段状にエネルギーのレベルが上がるのだが、
この「死んでもいい」の台詞も、もう一速ギアを入れる大きなポイント。

少将の恋に憑かれた激しさが出れば出るほど、「俗悪だわ!」がぶつけやすくなる。
そのエネルギーがまた、庭木が海のようにざわめき出す帆船の長ゼリへと繋がっていく。

「飽きられてもいい。ずっと愛するから」
この解釈は、この先の「美しい」と言わせまいと抵抗するシーンにも確実に響いていく。

少将をやった受講生が受け取って仕掛けることの出来る人で、予想以上にヴィヴィッドな
化学反応が生まれため、熱量の基準値が出来たことがこのエチュード最大の収穫となった。


金曜クラスで出た解釈 〜イメージの飛躍

鹿鳴館に出てくる男女は、ある意味「陰陽師」で言うところの式神(しきがみ)。
もちろん小町は術師ではないのだからあくまで個人的イメージだが、と話したら、
受講生からも面白い解釈がたくさん飛び出してきた。


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少将の台詞はここから急激に熱を帯びる。

「今僕は、」 「もし今、僕があなたと」 「今僕の頭に」 と、
この短い会話の中に「今」が三度も。
少将はこの突然降りてきたひらめきに昂っていく、まるで神の啓示を受けたかのように。

この流れを金曜の受講生たちは「転生」への意識と捉えていた。
少将自身は夢物語として語り始めるのだが、無意識は運命を悟り、
悟ってしまえばそれは確信へと変化し、あとは坂を転がるようにその一点へと駆け下る。

それはあまりにも急激な変化。
恋をすると人は鋭敏になり、予感が現実になるようなことはよく起こるが、
いよいよその時という今になってこんな転変をすることになろうとは。
人は崖っぷちに立たされたときに運命に出くわす。

この流れを転生と捉えると、以下の謎の会話が違うものに見えてくる。


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受講生の一人が、「小町は正倉院、少将は伊勢神宮」と例えた。

古めきながら千年以上その存在を保たれてきた正倉院と、
式年遷宮で20年ごとに生まれ変わる伊勢神宮。

「私は年をとりますまい」「年をとらないのは僕のほうかも」って。
大爆笑の分かりやすい例えだった。

まあ実際の演技に乗せるには難関だが、少将の演じ手には台詞の一助となるイメージだ。

更にここの解釈はもう一つ、演技的にはこちらのポイントの方が高いかもしれない。
「年をとらない」ということは、今と変わらないということ。
イコール、いつまでも今の気持ちのまま、あなたを愛し続ける、その比喩だと。

こうしてみると、このホンには「永遠に愛する」という主題が通っていることが分かってくる。

関連から、望みが叶えばあなたに飽きる、飽きたくないから「死んで成就させない」
永遠の愛にするために、という解釈も出る。

この説を聞いて思い出したのが、フランス映画の『髪結いの亭主』。
今もって山岸のベスト1で、自分の年代が進むにつれ解釈が変わる名作なのだが、
これはぜひ観ておくといい。
私はこの映画で、究極のエゴは最大の愛の証なのだと知った。
(笑)まあ観れば分かります。

面白い説がもう一つ。

小町は百年、本物を待っている。
この男は本物の少将か、それらしき人が現れると毎年鹿鳴館の幻惑でお試しをしている。
本物の少将は、美しいとは言わない。
それで二人は昇天していける。
ラストシーンの小町のいきなりのドライ感は、本物じゃなかったから、というもの。(笑)

これだと、巧い役者がやればコメディ風味の作品にできるかもしれない。
いや実際、悲恋に向かって突っ走る線と共に、特に前半に笑いの要素をまぶすのは、
上演には欠かせないポイントだ。
それにつけても、人々を酔わせる止まらないロマンスはしっかり作っておかねばなのだが。



□□ READ by Yamagishi □□

百年ごとにめぐり逢う、それを二人の宿命にしたのは少将だ。

「お墓の中で会うのでしょうね」と言っているのだから、
鹿鳴館の時点では、小町はごく普通の人生を送るものだと思っていたのだ。
それを思うと、小町のこの台詞は憐れだ。

百夜通いを課したのは小町、ゆえに関係の主導権は彼女にあるように見える。
詩人も、あたかも老婆の哀れな餌食のように見えるが、実際は逆。
少将の方が小町に、永遠に自分を愛し続けるという呪(しゅ)をかけたのだ。

恋は、より強い呪をかけたものが勝者となる。
けれど少将は分かっているのだろうか、その呪に自身もかかってしまっていることを。
小町がいる限り、少将は転生の宿命から逃れられない。

小町はどうしたら死ねるのだろう。
あのとき少将が、詩人が、「あなたは美しい」と言わなければ、
小町の魂は散華できたのだろうか。

いや、小町は美の化身、この国に息づいてきた「美」そのもの。
美は美として存在しているにも関わらず、決定的に不可欠なものを必要とする。
讃美者の存在だ。
誰かが美しいと認めなければ、そこに有りながら無きものになってしまう、それが美。

だから小町は「美しい」と言ってほしいのだ。
美である以上、それを求めるのもまた宿命なのだ。

美は、自分からは能動できない、ただそこに在るだけ。
讃美を受けとめて、変わらずそこに在るだけ。
まるで植物のように、花のように、美しいという男のため息を受けて揺れるだけ。

それだけでいいはずなのに、小町はその言葉をふさごうとする、
言えばその人が死んでしまうから。

小町は、自分が美しいと言われることより、相手に生きてほしいと願っている。

小町が本当に欲しかった言葉は、思いは、何だったのだろう。
たぶん小町は、それを待ち続けている、百年ごとに。

「あなたを愛している」…なのか…?

男にとって、愛していると言う、それはどれほどの重みを持つものなのだろう。
心から、夢のようにうっとりと、美しいと言われても、
それが何になろう。

「愛している。百年待っていてくれ。必ず帰ってくる」

そう言ってくれたなら、百年なんていくらでも待てる。
愛していると、言ってくれたなら、小町の命も詩人と共に散れたのかもしれない。
けれど男は美しいとしか言ってくれない。

呪を解くひと言、それが「愛している」という言葉なのだろうか、
それともそこから、新たな呪がかかるのだろうか。

男にとって「美しい」という言葉は、「愛している」と同義語なのでしょうか。
女はそれを理解できないということなのでしょうか。

男にとって、美しいと言う、それはどれほどの重みを持つものなのだろう。。

あのの実、あの吸殻で、小町は占っていたのかもしれないと、ふと思った。

相手の気持ちが分からないとき、自分の未来にふるえるとき、女は占いをする。
独りになると御し切れなくなる秘めた吐息の濃さに負けて、思いは指をあやつり出す。

あの人は今どうしているだろう、わたしのことを考えてくれているだろうか、
わたしに気持ちを抱いてくれているだろうか…
あれは何だったの、なぜあんなにやさしく包んでくれたの、あのときあなたは、
何を感じていたの…
囚われて。そのひとに。女は自分の恋を占う。

しかし小町は、百夜通いで少将の気持ちは知っているのだ、胸が痛くなるほどに。
小町は幸せだ。
九十九夜の愛に包まれて、小町は信じている。
やがて来るその時に、身も心も少将と溶け合う、一分の隙なくひとつの魂になる、
ただそのことを、九十九夜、信じて来られのだ。
なんと幸せな。
なんと賢い女だろう。

しかし小町にも分からなかったのだ。
男は必ず果てるものだということを。
果ててのちの余韻には、男は生きられない生き物だということを。

そうして小町は占いはじめる。

いつ来る。
もう一度めぐり逢う、その時は。
あなたは。
いつ来る。
わたしが待っている「それ」は、
いつ来る。
今夜? あした? あさって…?

百年、小町は吸殻で占う。
答えなど出ないと分かっていながら、夜毎、夜毎、吸殻を繰(く)り続ける。
そうして待っている。
そうして、愛している。


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こんなに多くの人間がいるのに、出会える人はなぜ限られているのだろう。
真昼から降り始めた時間を歩み出すと、出会いの重さは若い頃より沁みる。
ひとつひとつに意味があるのだと。
いい人。
わるい人。
自分とて、誰かのわるい人になっているやもしれないのだ。
よしんばいい人として出会えても、瞬時にそれが反転することだって、
呆れるほどしょっちゅう、起こるのだ。

できるなら。
愛し合いたい。
けれどそれはもう、自分を呪にかけていることなのかもしれない。
呪は、しかし、まるきり手離すには甘美すぎる。

この誘惑がなければどれだけラクかと思いながら、待ってしまうのだ、
めぐり逢いを・・・

このホンに向かうと、いらんことばかり考えていけません(笑)








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2016年08月18日

お踊りあそばせ…

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軍服での舞踏シーンのイメージを探していてふと気づいた。
少将は軍人、つまり死ぬことが仕事の人間なのだ。

恋のために死ぬ。
確かにそれは軍人としては文弱の徒に成り果てた姿であろうし、
その組織の人々から見れば、少将の選択はそれこそ噴飯ものの“俗悪”の極みだろう。

エリート集団である参謀本部の少将が一人の女のためだけに命を捧げた。
これは想像以上のかなりな異変なのだった。

先週は表現テクニックについての具体的な講座だったため、内容はここには書けず。


□□ READ by Yamagishi □□

今夜、今すぐ死んでもいいという少将を、小町は必死で引き止める。

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生きるということを、「充実」という言葉に置き換えてみると。

小町が言っていることは「死のために人生を充実させるわけではない」。
これは、馬は人参がなくても駆けるものという台詞とイコール。
生き続けることに意義を見いだし、まるで「命」自体として発言しているよう。

一方で少将は、「死を選べば充実して生き切ったことになるのかもしれない」と言う。
至高の絶頂に到達できる瞬間を得るためなら死ねる、という思い。
命をどう使うかは自分が決めることと、あくまで個の中で生きている。

小町は線を生き、少将は点に生きようとしている。
これはそのまま男女の性の特徴にも通じつつ、小町はどんどん焦燥していく。

百夜という長い時間を経て身も心も預けようと決めた、その男が、
いつのまにか自分を乗り越えて遠くへ行こうとしているから。
勝手に置いていかないでという悲鳴。

だから男がもっとも嫌う“俗悪”という言葉で断定し、
絶頂体験という死の誘惑から引き戻そうとする。

このあたりは、ただの女と哲学を持った神に近いような老婆とが渾然一体となっている。
それは、女の子に相手にされず大恋愛に憧れてきた弱虫の詩人が、
万民のための命として生の瀬戸際を見続けてきた男の中の男である少将と同化していく、
それと同じ現象。


小町はやはり「女」でなければならない。
動画サイトで、徹頭徹尾ドライにブレない老婆が演じられている映像を見たが、
それはやはり違うと思ったのだった。

小町の台詞はすべて言い切りなのだが、気持ちもこのままブレずにやると、
詩人が阿呆に見えるのだ。
説教したのに言うことを聞かず、勝手に滅びていった愚かな男。

これでは小町が何のためにあんなに必死に引き止めたのかがまるで分からない。
詩人=少将に納得の魅力があればこそ、老婆も小町も言葉を尽くせるのだ、
あんなに取り乱してまで。

この話は小町が女としてブンブンに乱されなければ作家の本当の意図が伝わらない。

脆弱なかぼそい詩人に身を預けようというまでの夢を、小町も見るのだから、
老婆が絶世の美女になったように詩人が水も滴る「男」に変わる、
そうなって初めて男女の性差、人間の生き様の違いが浮き彫りになる。
それがこの作家の仕掛けなのだ。

彼女は『マクベス』の魔女ではない。
預言者然とした客観芝居は物語の悲劇性を損なう。
俳優は台詞の裏をどう掻くか、どんなリアルを立ち上げられるか、
そこから離れてはならない。


鹿鳴館シーンで踊る曲として個人的に浮かぶのは、
ショスタコービッチの“セカンドワルツ”

この動画は、ワルツというもののめくるめく感じがよく編集されている。



こうしてみると、ワルツとはなかなか激しいものだ。
これだけクルクルしていたら、相手だけを見ていないと転んでしまう。

相手の身体のリズムに集中していくうちに、「気」も合ってくるわけで、
クルクルクルクル…酔ったようになって、
いやがおうにも二人だけの世界に埋没していくことになる。

もっとゆっくりとした優雅なものだと思っていたが、これはほとんど魔術な踊り。
詩人が少将に変わってゆく仕掛けとしてはパーフェクト、そのうえに、
フォーマルの極みであるこのダンスには、整え抑制しようと堪えるセクシーさがある。

それは百夜通の忍耐を思い起こさせるものだ。
剥き出しの情熱をぶつけあうタンゴではダメなのだ。
作家はこのへんの感覚もよくご存知だったわけだ。



さて、そんな、この作品最大の見せ場を体感してみようという、
無謀にもほどがある講座が(笑)明日からはじまります。

台詞の間があくことなんて気にしなくていいから、相手を感じることを一番大事に、
こんなシーンをさくさく喋ったらむしろワタシ怒ります。

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(笑)。






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2016年08月07日

待ちわびて…

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大勢でする解釈の意義は、未知の見方を得られることにある。
他者との感覚の違いを知ることが自分の解釈を生み出していく。
逆に、自分にはない感覚を入れることでいかに瑣末に固執していたか分かったりもする。

それは相手役との響きあいから到達できる、独りで考えていてはわからなかった世界。
稽古の現場では積み上げた自分のプランを一旦捨てて向かえと言った理由はここにある。
芝居は総合芸術、どこまでも相手あっての物種なのだ。

相手からもらう、人の考えに染まってみる。
この柔軟性が、どんな現場・相手でも化学反応を起こせる魔法をもたらす。

春のロミジュリクラスではその化学反応を体験したわけだが、

このホンにも同じ魔力が忍んでいる。

ワルツを踊る。
二人手をつないだまま佇む。
手を取られて慄える小町。

この3シーンがその場所。
このとき、二人の手には何が起きているのか。
手はどんなことを語り合っているのか。
それはその二人だけの公然の秘め事といってもいい。

身体はあなどれないものだ。
相手の肉体を感じることで思わぬ感情が吹き出して来たりする。
たとえば相手の手の熱さ、力、湿りけ、指が伝えて来る意志。

こういうものを無視しては本当の解釈には至れない。
動作を実際に相手としてみると、驚異的なエモーションが生まれてくる。
これがケミストリー。

忘れてはならない。
ト書きに書かれていることは動作。
台詞を追うだけになりがちだが、動きをイメージすることで思わぬものが見えて来る。
解釈とはイメージ力を喚起することなのだから、何よりのヒントはト書きにこそある。


演じ手の解釈はあくまでドラマに向かうことにある。
物語のどこに感動をおぼえたか、その感動をどうやって体現していくか、
そこに解釈の肝がある。

その解釈にドラマはあるか。

観客はその解釈に感動できるか。

俳優はそれのみを追求し、決してそこから離れてはいけない。
もしも疑わしくなったら、それはまだプロセス、あなたの真実の解釈ではない。



□□ READ by Yamagishi □□

老婆が拾い集める「吸殻」に対して、受講生が画期的な発見をした。
これは何かのメタファーに違いないとは、講座の中でも出ていたのだが、
小町伝説に当たってみて、彼女は思わぬ拾い物をしてきたのだ。

古の男と女は歌のみで相手と往還し、実際に会うのは結ばれる際(きわ)が初めて。
暗い灯火の元なのだ、顔を見るのは下手をしたら事後の朝になってからかもしれない。
つまり、百夜通いはおたがい未だ見ぬ人とのあいだでおこなわれていた。

小町はいったいどうやって、少将の九十九夜の訪れを知ったのかが不思議だった。
下人にでも見張らせていたのか…しかしそんな無粋は物語にふさわしくない。

何かあるはずと思っていたのだが、あったのだ、やはり。
少将は真夜中、小町の家の門まで来ては、木の実を置いて帰っていたのだ。

朝になって、牛車を停める榻(しじ)の上に、ぽつんと置かれた榧(かや)の実のひと粒。

それを手にして、小町は夜毎の訪れを知っていた。
ゆうべも来た。
ゆうべもまた。
ゆうべも。。

の実は増えていく。
籠に半分にもなった頃には、少将の思いはきりきりと胸に迫るようになっていただろう。
そうしてそれは、いつしか小町の中でも祈りにも似たものに変わっていったのではないか。
来て、百夜。
わたしのもとへ、必ず、無事に。。

百夜通ってくれたなら、百夜の真をくれたなら、わたしは喜んであなたに抱かれる。
これまでの誰もが果たせなかった愛の証を、あなたが立ててくれるというなら、喜んで、
初めてのわたしをあげましょう。
だからお願い、無事に、わたしの前にあらわれて。。

そうしてその夜が明けたとき、榧の実は無かったのだ。

小町はどれほどの衝撃を受けたろう。
ここまで来て引く、そんな男だったのか、そんな男に私はこころを預けてしまったのか。
悲しみに取り乱れながら、小町はすぐさま別の予感にハッとする。
何かあったのでは…
何かがあのひとに起きたのでは?

閉ざされた雪の中でか、流された川下でか、貴人の遺骸がみつかったと聞いて、
小町は駆けつけたにちがいない。
人前に姿を晒さぬ高貴な身分の女が、止むにやまれぬ思いのままに。
けれど小町は少将を見たことがないのだ、いったいどうやって分かるというのか。

榧の実を握っていたのだ。
その遺骸は、しっかりとその実を握りしめていたのだ。

やっと逢えた、そのひとが。。

これほど悲しい恋があろうか。

待ち針。
糸が通せない針。
それは本当は、小町針と呼ばれていたのだという。

男たちを袖にし続けた小町には穴がなかったのだなどという口さがない噂が落した、
針の名前。
しかし。

永の後生を、小町は少将を弔うことのみに生きたという。
少将が残した榧の実を、通い路の道の辺にひと粒ずつ植えて。
榧はまたしかし、大樹になるまで300年もかかる樹なのだそうだ。

小町が住んだとされる京都山科の随心院までの道は不成就道と呼ばれ、
受験生や恋する人々は今でも決して歩かないのだという。

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深草少将は百夜通いの冷たい暗闇のうちに病み疲れ、であればこそ尚いっそう、
恋に憑かれていく。


恋をして、まるでシャガールの絵のように地上から浮き立つ恋人同士の在りようは、
誰もが憧れるもの、だがしかし老婆はそれを死んだ姿だと言う。

老婆にとっての「2本の足でしっかり踏みしめる」現実は、100年少将を待ち続けること。
待つことが老婆のまごうことなき現実。
浮かれず、呼吸をしながら、ひたすら待ち続ける、それが現実。
それも恋。
それが恋。

恋の時間は一瞬の夢、甘美なメロディが消えれば急に我に変える。
しかし小町の恋は夢ではない、今待っているそのことが現実であり、
小町の現実は恋そのもの。
一瞬で消える儚い夢ではない、永遠に終わらない現実、それが小町の恋。


小町の年齢はいつまでたっても99歳。
百年経とうが千年経とうが99歳で止まっている。

99は百夜通いが途絶された数字。
だから小町はそこで止まっている、心はそこで死んでしまった。
だから小町(老婆)の現実は、
詩人からは信じがたい「生き甲斐のない」希望や憧れの光がいっさい射さない時間。

老婆はそれでいいのだ、九十九夜ときめきの中で生きたのだから、
それ以上のものなど起こりうるはずもないのだから。


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小町にとっての奇跡とは、なんであったろう。

百日目からさきの生の甘美は、少将を失った小町にとっては俗悪でしかない。
あの人がこなかった。
あの人が、しんでしまった。。
その夜を境に、小町の心はいっきに99歳の老婆になってしまった。

伝説上の小町は少将に、悪いことをした、なんてむごいことをしてしまったのかと、
悔やみ続けたろう。
その悔恨は、残りの生涯を少将の弔いだけに生きたことと共に、
純化され本物の純愛に変わっていったろう。

穴の無い女、小町、絶世の美女でありながら処女のまま果てた小町。
普通の恋愛が待っていたはずの人生が、
少将を亡くしたことで、本物の純愛という厳しく孤独な道になった。

肉欲の絡まない恋が純愛だとするなら、
その後の小町の弔いに殉じた在りようはこれ以上ない純愛だろう、
対象を失くして尚、残りの生涯を脇目もふらずその人だけ愛し続けたのだから。

それは男にとっての理想ではないだろうか。

以前、『貴方と嘘と夜と音楽』という芝居を書いたとき、
去った男に13年とらわれてしまったヒロインに対して、その男を演じる俳優が、
「彼女は別れてから一度も他の男と関係していないと思う」と言って、
生身の女がそんなわけないだろうが、と女優たちにツッコまれたのだが、
彼はそれでも納得していなかった。

あなたただ一人。
男が求める女の姿はあまりにも身勝手。
それはそのまま、言いたいことを言って勝手に死んでいく詩人の在りようそのままと、
言えなくもない。


多くの男に求められる女は、どんなことを考えるか。

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気づけばあっちの男からもこっちの男からも愛されている。
それはさながらレースの趣。
ゴールにいる自分に向かって、ひたぶるに駆け競ってくる駿馬の群れ。

ゴールがどこにあるのか、何をしてゴールというのかは男には分からない。
女自身にも確かなことはわかっていない。

ただ、日毎、時毎に近づいたり離れたりする男たちの中にいて、
それこそ命を懸けて、「あなたのためなら何でもする」と言ってくれる人が、
その人なのかもしれない。

男は二言を嫌う生き物だ、しかし実際この言葉を口に出せる男はそうはいない。
大人の、おんなをよく知っている男なら尚のこと。
自分の言葉を欺くことが、本物の男にはもっともこたえる。

だからこの言葉は、本気の恋でなければ決して口にはしない。
それを分かっている女は、男を許してやれる、たとえ刹那に終わったとしても。

そんな本物の男揃いになったとき、女はどうするか。
ただじっとそこに居て、男たちの動きを見守るしかないのだ。

ハードなお題をしつらえて、どの男が乗り越えてきてくれるか、
最後まで本気を貫いてくれるか、眺めているより手だてはないのだ。
男は勝ち取るのが性(さが)なのだから。

手に入りそうで入らない、そんな存在は男にとって現実以上の気高さを纏う。
そうして男は本気を傾けてしまう。
場合によっては身の不幸に繋がると分かっていても、納得いくまで止まれない。

百夜通いには何十人という男がトライしただろう。
ある者は三十夜で、ある者は五十夜で、小町の前から消えていった。
人気のない暗闇の中、ひっそりと訪れては榧の実を置きにいく、
それだけを続けるなど、現実を生きる男には馬鹿馬鹿しくなって当然の壁なのだから。

しかし女には、その馬鹿馬鹿しさこそが真実を見る鍵なのだ。
だからこそ、小町は100粒目の、置かれなかった榧の実に衝撃を受け、
永の後生を清い身体のまま、彼岸に生きる存在となったのだ。

ちゅうちゅうたこかいな……

吸殻は榧の実。
数えて、待ちわびる、永遠のループ。

最大の謎である、あの「もう百年!」が、また少し変わって見えてきた。




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2016年08月03日

美しきひとの名は…

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夏クラス、始まりました。
ずいぶんたくさんの方が体験にいらしてくださり、なんと嬉しいことに全員が継続に。

フレッシュで華やかな幕開けの中、本読み教室はまた新しい一歩を踏み出しました。


□□□□□□□□

今季のテキストは、一筋縄ではいかない作品。
構造が複雑なため、1ページ目から順を追っての解釈というのができない。

感想を聞くと受講生の興味は、やはり後半のクライマックス部に集中。
そこで出た解釈を基点に、前半部分へと還していく形になった。


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この台詞に対して印象に残った解釈をランダムに。

キレイと言われる嬉しさは女の本能、言わせることで満足する。
 ゆえに美しいと言わせた後はカマキリのように豹変、相手が死んでも平気。
 この変わり身の速さは女ならでは。

憧れの相手にキレイと言われたら失望する。
 相手にはもっと高いところにいて欲しかったから。
 自分より強い男を求めているのに、降りてこられると恋は死ぬ。
 この男も只の人だったという感覚、男の死はイコール恋の死。

美しいと言われた時から女は歳をとっていってしまう。
 だから言われたくない。
 それでも言われたら、恋の絶頂はその時からもう死んでしまう。

この男と女の会話は精神的セックス。
 美しいと言われることは絶頂、いつまでも浸っていたいから寸止めがいい。
 言われたら後は醒めるしかなくなる。
 それなのに男は欲望に駆られてすぐに言いたがる、絶頂のみを欲しがる。

キレイに見えるが女って汚いよねという作家の目を感じる。
 男の理想が描かれている。
 男の作家が書いたものだなーと思う。

老いさらばえた姿を世界で一番美しいとまで言う男の目線の変わり方が滑稽。
 この老婆は人間の愚かしさ、儚さを引っ張り出す幽霊・妖怪なのでは?
 手管を使って褒め言葉を言わせ取り殺す。
 美しいと言われることがこの妖怪のごはん。

作家は「美」をフリーズさせている。
 戦前の日本が持っていて失くしたものへの恐れ、悔恨を描いている。
 全般的に生と死が意識されている。

一度欲望を抱いたら男は止められない。
 美しいと言いたい絶頂へ一直線に向かうしかない。



□□ READ by Yamagishi □□

この物語には「俗悪」という言葉が9回も出てくる。
作家は「俗悪」ということに何か大きな意味を持たせている、それは何なのか?
舞台設定は「極めて俗悪」=第一行目のト書きからすでに隠しテーマが忍ばされている。

物語の書かれた年は1951年(昭和26年)、クライマックスシーンの舞台は鹿鳴館。
鹿鳴館は明治19年開館。19年前は幕末。黒船来航が明治維新という革命を引き起こした。
然るに昭和26年、こちらもわずか6年前に敗戦から民主主義への大転換が起きている。

この物語には二つの断層が描かれている。
この国が培ってきた文化、歴史、思想は米国によって二度、バッサリと断ち切られた。

小野小町は昭和26年時点でも1100年以上前の時代に生きた、わが国一の美しき人。
千年続いた古(いにしえ)からの美が、アメリカナイズされた近代では老婆と蔑まれている。
作家はこれを隠しテーマにしているのだと感じる。
舞台が鹿鳴館である意味はそこにある。

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敗戦からたった6年で、あまりにも変わってしまった日本。
命を懸けて守ろうとした国は、かつて愛した美しさを刻々と失くしていく…
26歳の天才作家の心に刻まれた思いは、現代の我々には想像も及ばない。

  花の色はうつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに

―小野小町       

この物語は米国の占領時代に書かれている。
日本が独立を果たしたのはその半年後だった。
ただ、戯曲の読解と作家の思想への共鳴は別物、ここに巻かれてはならない。


謡曲の『通小町』では、愛の妄念となった深草少将の霊が小町に取り憑き、
旅の僧の導きによって百夜通いを再現することで二人は成仏できる。

この物語の老婆にはそれがない。
99歳の老婆はさらにもう100年生き永らえねばならず、宿命のループから抜け出せない。
なぜなのだろう。
この老婆は何かを待っている。
いったい何を? なぜ? 待っているのだろう。

戯曲の読み解きをするとハマる罠は、「物語」を逃しがちになることだ。
まして演じ手なら、イメージの力は常に湧き起こしていなければならない。
この作家が描いたのは、絢爛豪華にしてせつないロマンティックな二人なのだから。

私が想う小町と深草少将の在りようは、この美しい曲がイメージさせてくれる。

  

ここまで甘美な世界に仕立てても、まったく陳腐に落ちない物語。
私はそう読んでいる。

そうむしろ、この物語の甘美に浸った方が数々の謎はきれいに通る。
ひとつずつ解釈を深めるごとに、豪奢でさびしいこのロマンスに戻ってみればいい。



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今週も、前へ、進んでまいりましょう。(笑)





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2016年07月18日

本読み教室、リーディングデビューするの巻

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16日は、岸田國士の 『隣の花』 のドラマリーディングをしてきました。
本読み教室の世間さまデビューです。

自由が丘にある、小さな教会のような瀟洒なスペースで、
手作りのカップでコーヒーを飲みながら文芸に触れましょうという、
陶芸教室さんのイベントにお呼びいただいたのでした。

急なお話、かつ、夏の土曜の午後にゆったり憩うセレブなみなさまがお客さまですから、
3月のおさらい会で発表していた 『隣の花』 なら、
色気のある大人の物語だし、すべてにおいてベストバランスの一択ということで、
教室メンバーに出動してもらったのです。

とはいえ公演ですから、見せる朗読に仕上げないとならないわけで。

トータル6時間というとても短い稽古時間のなかで、
役の心情のリアルを表現にまで立ち上げて、演出もしっかり覚えて、
という作業は、演者にはかなりハードだったはずです。

容赦なく飛ばす山岸の無体な注文に、早い理解でついてきてくれたのは、
春のクラスでこつこつ積み上げた、時に身体も使って探った解釈が、
この芝居のベースとしてみんなの中で共有されていたからですね。

つけた演出は、ここぞという時以外はどの役も客席を向いたまま、
役者同士のコンタクトは取らない、いわゆる様式美を追う形にしました。

朗読は、読み手とお客さまの想像力とのコラボレーションで成立するものです。
これ、演劇の、いや芸術の本質ですよね。

だから朗読って、実はそんな簡単なものじゃない。

まして岸田國士の作品は、
日常に隠された心情のうねりが緻密にあぶり出されていく世界なので、
ウソを演ると何も伝わらなくなる、おそろしいホンなのです。

これを言葉だけで成立させようというのですから、
演じ手は、実はけっこうな難度を要求されることになるわけで。

朗読は俳優を鍛えますよ〜。

この、お客さまの想像力に訴える原点回帰を、ちゃんとやりたかったので、
動きは物語の山場を届けるための、座るか前に出るかの最小限に抑えたのですね。

女優陣の衣装には見る楽しみを加えて、わかりやすい遊びを入れました。
いわゆる、花と竹垣?(笑)
とにかく 「シンプルの美しさ」 だけを考えた演出にしました。

実は通し稽古はできないままの、まさにぶっつけ本番だったので、
大丈夫か…という不安も、正直あったのだけど、
とんでもない。

本番のメンバーはみんな、驚くほど澱みない気持ちのいい口跡で、
丁寧にダイナミックに、ちゃんと役を生きて見せてくれました。

女優さんはみんなとってもキレイだったし、男性陣はセクシーだったし、
狙い通りの品格を出しながら、それぞれにフレッシュな弾けっぷりも見せてくれて。
本番の役者というのはやはり大したものです。

主祭側のご都合で、前編後編15分ずつの構成に分けたのですが、
始めがさついていたお客さまも、ある時点からクッと集中され、
あとはずっと、この静かな時間をたのしんでくださって。

後編に入ったら聴きに来られる方が増えていたのも、うれしい現象でした。
うちのE頭さんなど、美人のおくさまに 「素敵でした〜、いいお声ですね〜hartvage12.jpg
とプチ出待ちなどされてましたし。(^o^;)

本当にみんな、よくやってくれました、デビューは大成功でした。
というわけで、終わって心底ホッ。。
とする間もなく 「またやりたい〜」 の大合唱。(笑)

いや、確かに面白かったですもの。
今後、教室でこういうサロン演劇といった場の常設を、
ちょっと真剣に考えようかなと思ってます。

本読み教室はじめての夏は、こうして少しずつ、場が広がってきています。
これも出会ってくださったみなさんのおかげです。
ありがとうございます。

さあ、週末からはいよいよ夏のクラスがはじまります。

今季はどんな方が仲間になってくださるでしょう。
お時間があったら、一度お気軽に覗きにいらしてください。
みんなとっても楽しみに、あなたをお待ちしています。







続きを読む
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2016年05月24日

離風霊船『ゴジラ』ヒロインが本読み教室から出ました

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離風霊船公演 『ゴジラ2016』 は、
おかげさまで連日の大盛況と共にお客さまに大変お喜びいただけております。

東京公演も折り返しに入りますが、
土曜のソワレでは大阪楽日に続いてダブルカーテンコールもいただき、
メンバー一同、それは大きな力をいただけました。

ご来場くださいました皆さま、ご予約を頂戴しているみなさま、
本当にありがとうございます。


扉の写真は、三代目ヒロインやよいを演じております田中奈緒です。

なんと彼女は、この本読み教室の現役受講生です。

昨年の秋から教室に通い始めて数ヶ月経ったところで、
『ゴジラ』 作・演出の大橋泰彦の目に留まり、白羽の矢が立ちました。
今回が初舞台のフレッシュな新人です。

この「やよい」は、浮世離れした清純さが要求されるかなり異色な役のため、
ヒロイン探しには時間がかかっていたのです。

が、まさかこの教室から輩出することになるとは、、、
大抜擢ですからねぇ、私が一番驚いたかもしれません。

奈緒さんは、素直にあるがままの持ち味を出し切ってくれています。
稽古中の伸びしろには、劇団員もみな目を見張りました。

このホンを知っている女優なら、一度は憧れるプレッシャーの大きい役ですが、
本番でお客さまから育てていただく喜びが、奈緒さんの中で覚醒してきたようです。
がんばれ!最後まであがき続けてね。

座組にはほかに、教室一の優等生も出演しています。
あまりに優秀なので名前は伏せます。(えーっ!笑)
でも本当に…終演後のロビーに並んでいる彼女たちを見ると、
ちょっと、得も言えぬ熱いものが胸にあふれそうになって、いつも困ります。

母船の本公演に二人までも選んでもらえたことは、教室の誇りとなりました。

本読み娘たちの情熱が、
初演から30年のリブレの『ゴジラ』に新たなパワーをもたらしてくれています。

東京公演もあと半分、来月には名古屋で大千秋楽を迎えます。
心に抱くのはただひとつ、
「日々進歩!すべてはお客さまのために」

彼女たちの清新でパッションあふれる姿を、ぜひ確かめにいらしてください。


 劇団離風霊船 『ゴジラ2016』

 ■公演日程
 【大阪公演】
 一心寺シアター 5月14日〜15日

 【東京公演】
 下北沢ザ・スズナリ 5月18日〜29日
 24日(火)19時30分
 25日(水)15時/19時30分
 26日(木)19時30分
 27日(金)19時30分
 28日(土)15時(残席わずか)/19時30分
 29日(日)15時(完売)

 【名古屋公演】
 愛知県芸術劇場小ホール 6月4日〜5日
 4日(土)19時
 5日(日)13時

 ■料金
 全席指定3300円

 シニア割り(60歳以上)3000円
 学割3000円
 双子割り(2名1組)6000円

 高校生以下2500円
 限定かぶりつきシート2500円(スズナリのみ)

 ■ご予約
 yrosegarden@yahoo.co.jp (@を半角に)
 『ゴジラ:チケット予約』 の件名でお願いします



ほかの受講生さんたちはといえば、これががまたどんどん!
オーディションを勝ち取っているのです。

これにはちょっとビックリしています。
この春は観劇ラッシュで大変でした(笑)

6月に女優デビューする方もいる一方で、新たな展開に入られたベテラン勢も多く、
メンバー同士、いい相乗効果をもたらしているように見えます。
どの方も呆れるほどの努力家さんですからね、報われないはずはないんです。

みんながここで自信をつけて羽ばたいてくれているのが、本当にうれしいです。

次はあなたの番ですね。

7月から教室を再開しますので、ぜひ一度体験にいらしてください。
2016年教室の詳細は近日アップします!










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2016年03月03日

勝って、しかも負けるという術…

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■第三幕 第二場 104ページ

   ジュリエット
  教えて、汚れなき二人の純潔を賭けたこの勝負に、
  勝って、しかも負けるという術を。

原文:
Come, civil night,
Thou sober-suited matron, all in black,
And learn me how to lose a winning match
Played for a pair of stainless maidenhoods.

現代英語訳:
Come, night, you widow dressed in black,
and teach me how to win my love so that we both can lose our virginity. 


原文の大意を直訳すると、
「初体験に臨む二人が、この勝ち試合で(ちゃんと)喪失する方法を学ばせて」
ということだと思うのだけれど…

原文では「how to lose 」=負け方 になっているのが、モダントランスレーションでは
「 how to win 」=勝ち方 にひっくり返っているところが、軽く気になりつつ。。


上に記した教室テキストは、3人の翻訳家さんの文を混ぜたものなのです。
どれも帯に短し…だったので。


       教えて頂戴、穢れない二つの操を賭けたこの勝負、
       どうしたら失うことで勝利できるのかを。
河合祥一郎:訳 


 意味は分かりやすいのだが訳としてあんまり面白くない(個人的感覚)。
 操って、、なんか急にババ臭くなってジュリエットの心情に乗れなくなる(笑)



       二人の汚れない純潔を賭けたこの勝負、
       どうしたら勝って負けられるかを教えて。
松岡和子:訳  


 前半は詩的に美しい整いがあるのだが、後半はあっさりしすぎて意味が弱い。
 (個人的感覚)
 勝って負けられる?? 何のことやらと原文と河合版を引いて超訳かぁ!と。
 しかし普通に一読しただけでは謎のラインとしてスルーされかねない。
 ここ、けっこうポイント高い台詞なので、困りたものよと。



       お願いだわ、
       純潔無垢の処女と童貞と、その二つを賭けたこの勝負に、
       勝って、しかも負けるという術を教えてもらいたいの。
中野好夫:訳  


 前半の意味はもっとも分かりやすい、がこんな身も蓋もない台詞いうの嫌(笑)
 「勝って負ける」が二本出てきたことで、どうやらこれが邦訳のベーシックらしい。
 どうせなら中野さんの後半の美文調をいただくことにする。


というわけで、
日本語訳には英文の直截な内容以上の哲学的な何かがありそうに思えて来まして。

天下の名訳家たちが雰囲気だけで言葉を選ぶとは思えないので、
「勝って、しかも負ける」からは恋の深淵が覗けそうじゃありません?


恋愛において、「勝って、しかも負ける」とは、どういうことか。。

二人が初めて一つになるという時、運命というものも含め、
何に勝ちたくて何に負けたくなるのか。。


そのあたりを考えて、イメージを広げていただく、
これが今週の宿題です。
それぞれの恋愛観が見えてきそうで、面白い謎解きになると思います。
(^o^)v

私はこの先をせっせとリライトしますので、
まだ未読のシーンを中心に、あなたの疑問や解釈を持ってきてください。

ジュリエットもですが、特にロミオの狂乱っぷりがかなり謎です。
なんであんなに悶絶して、追放という処遇に恐怖したのか。。

そして、あの美しくも有名な別れのシーンですね。

恋するひとを残していく。
恋しいひとの背を見送る。
ひばりの歌で追い立て、引き剥がす、残酷な朝。

その時あなたならどんな激情におそわれるか。。

おうちで追体験しておいてください(笑)








2016年03月01日

恋の手引きで。

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春のクラスを始めて6週間がたちました。
みなさんの熱い心に後押しされて、夢中でここまできたけれど、
ふと立ち止まればあと4週。。

来週からは本格的に自分の劇団の公演稽古が入ってきますし、
4月になれば、教室は初夏までお休みになるのです。

それを思えばなおのこと、あとひと月でみなさんにどれだけのものをさしあげられるのか、
まだまだ、もっともっと!
気持ちばかりが前のめりになって困ります。

あと4週間、とは。
なんだか、春が来るのがこわい。

不思議なものです。
だって、去年の今頃は自分が教室をはじめるなんて思ってもいなかったんだから。
それが今こんなにも愛するものになっているなんてことも、夢にも思わなかったんだから。

というか、こんなにも愛せるものにめぐり逢えた、その不思議に、
打たれているのかなー。

ほとんどが見知らぬ人たちとして、初めまして、から始めているのに、
そういう人に、こんなに想いをかけられるという不思議に、かなー。。

感じているのは、出会いの妙。
よくぞみつけて、尋ねてきてくださった。

たどり着いても続かないご縁もたくさんあったのだし、
それを思うと、会うたびに心の糸を縦に横にと紡ぎ合えている、
これはほとんど奇跡です。

定点にいて待つ身には、その有り得なさが、よーく解かった半年でしたね。


講座は3クラスともかなり深まって、個別の記事にまとめづらくなってきています。

企業秘密的な内容が増えているので(笑)ということもあるけれど、
何より、『ロミオとジュリエット』と『隣の花』の読み解きが、
自分の中で渾然となってきているのが大きな理由かもしれません、
どっちにも共通することなので、どちらかを選んで書けない、というようなね。

どちらも恋がはじまる物語。

そしてどちらも、障害にはばまれた恋。

偶然なんですけどね、
なんだか蓋を開けたらどのクラスでもこの問題と向き合う羽目になってるのが、
お、おぅ?(笑)

ただ、物語が目指す観客席への置き土産は、真逆です。

ロミジュリは、至高の愛、愛の信念を問いかけてくるお話なので、
最終的には宗教的とすら言える人間の崇高の極みが迫ってくるわけで、
まともに触れたら人生観すら変わりかねない強いパワーのある物語。

隣の花は、もっとナマモノな世界、
日常がいかに危ういバランスの上に成り立っているものか、
逸脱させないものは何なのか、それは果たして真に大事なものなのか、否か、
という、軽々しくみせながら多分にシニカルな大人のお話、ですのでね。

その違いは、横たわる障害のビジュアルを見ても一目瞭然。
ロミジュリの間を阻む壁は、こーんなに高い。

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 とりあえず、いっこらせっ…
 とよじ登らなければ、
 ジュリエットには触れられない。

 つま先だけで自重を支えるなんて、
 若者にしかできまへん(笑)

 一方で、隣の花の両家を隔てるものは、
 低くて軽い竹垣ひとつ。

 その気になれば、ひょいと跨ぐことも、
 でいっ! と蹴り倒すこともできちゃう、
 有って無きような便宜的結界。


 しかし、どっちのほうが高い壁かといえば、
 これはなかなかに深い問題。

 簡単に蹴りこくれるような境のその向こうに、
 魅惑の花が、
 たまらん風情でふっくりとひらいていたら…

 あーたは花泥棒にならずにいられますか?



という、ドSにもほどがある選択に、悶々と懊悩することになるわけですから。
大人の日常は、すべてこの闘いかもしれませんが。(笑)

阻まれる恋のことを考えていたら、なんだか『椿姫』が読みたくなってきました。

隣の花には『マノン・レスコー』に触れたセリフが出てくるけれど、
ちょっと前までは雛子のようにファム・ファタールに憧れた自分もいたけれど、
今は『椿姫』が、
やけに気になります。


恋って、なんなんでしょうね。

したいからってできるものでもないし。
周囲は絶賛する存在なのにまーるで心が動かないことだってあるんだし。

本当に、
落ちるもの。

もう二度とするもんか!と誓っていても落ちるもの。
さすがにもう無いと思っていても落ちるもの。
だめだめダメ!と思っていても落ちるもの。。ってダメと思ったときはもう落ちてるのか(笑)

意図せぬうちに、気づいたらもう囚われて、抜け出せなくなっているもの。

  〜ひとりのかよわい娘の中で分別と情熱が格闘している場合、
   我々の経験からいって、9対1の割合で情熱が勝ちをおさめるな〜

                  シェイクスピア 『からさわぎ』

恋をすると詩人になるよね、とは教室で出た話題ですが、
だからロミジュリはセリフがやたら詩!だったりもするわけですが、

芸術はもとより命までも、万物を生み出すエネルギーであるがゆえか、
世の中でもっとも厄介なものでもあるかもしれません、恋は。

そうね、パワーないとできないものだから、
その意味では、恋に落ちる力があるうちは安心していいのかもしれない、
生き物として大丈夫、みたいな?

えーっじゃああたしダメじゃーん!とガヨーンとなるのは早計です。
だっていつ落ちるかわからないのが恋だから。

      〜驚きだ、いつも目隠ししているくせに
       恋の神は見えぬまま思いどおりの的を射る〜

               シェイクスピア 『ロミオとジュリエット』

恋には賞味期限があるけれど、恋する気持ちには、それはない。
いつだって新鮮な罠は待ち構えているのです。

罠にハマればもがくことになるのは必定だから、
仕掛けがありそうなところには近づかない。
あるいは、よほど強力な罠でなければ、かかることはない。

まあ、それも、わかる。
けれど肉体の旬というのはあるのでね、まぎれもなく。
器が丈夫なら、火傷するような熱さも御馳走にできるのです。

いっぱいしたほうがいいですよ、一度しかないんだから人生は。
それも、苦しい恋ほどいいね。

       〜真の恋の道は、茨の道〜

               シェイクスピア 『夏の夜の夢』

人間大きくなりまっせ(笑)


先週は、ボディクラスも『ロミジュリ』と連動し、
マキューシオのセリフを使って、つか風の見得切りをやったりしました。

今の人ってみえきり、知らないのね、やって見せたらわーっと吸い込まれたようで、
夢中になって習得に躍起になってました。
気持ちいいからね〜見得切りって、芝居のケレンの全てがここにあるの。

今週のメンバーなら、何をすることになるかな。
恋も芝居も人生も、運命を決めるのはアドリブだったり。

そのアドリブが美しき裏目ばかりを引いていったのが、『ロミオとジュリエット』。
『隣の花』は、アドリブに飛び込んだところで終わります。

いずれ必ず散るのだけれど、それでもなんとか咲かせたくなる、
小さなちいさな花にすぎなくても、きれいにひらかせてやりたくなる、
それが、

恋。

考えただけで疲れるけど(笑)
厄介すぎて惹かされる、げに厄介な謎の華です。


 
 ジュリエット

誰の手引きでここへ?

  ロミオ
恋の手引きで。

とにかく君を尋ねろとそそのかしたのも恋、
智慧を貸してくれたのも恋、僕はただ目を貸しただけ。

僕は船乗りではないけれど、
これほどの宝を得るためなら、たとえ君が
最果ての海に洗われる岸辺にいても危険を冒して海に出る。


         『ロミオとジュリエット』 第二幕第二場