2016年02月19日

『芝浜』第四回:江戸に咲う(わらう)

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『芝浜』は先週で終了、いや〜最後に来て大爆笑の素晴らしいクラスになりました。

この日は、急遽の長い帰郷をしていた受講生のAYAKAちゃんが戻ってきてくれたので、
三喜子さんと麻早さんというベテランお二人に、志ん朝版を通しで読んでもらったのです。

この志ん朝版は、落語の王道中の王道、
華やかで随所に笑いの種が仕掛けられた構成のホンです。

それだけに難しいわけですよ、なにせ読みだけで笑いを取るというのは至難の技なので。

ところがどっこい、
熊五郎の麻早さんが歯切れのいいテンポで小ボケをバンバン飛ばしてきて、
そこへ女房の三喜子さんが、やんわりふんわりキビシイつっこみ!

もう、絶妙のコンビネーションに大爆笑です。

お二人はこの日が「はじめまして」のお手合わせだったんですが、
相性ってあるんですね〜。

芸の手は決してゆるめない三喜子さんの、
とってもやりやすくて乗せられちゃった♪ という、晴れやかな笑顔が印象的でした。

真摯でまじめな大人の女性二人ということが、むしろ男のリアルをまろく包んで、
安心して聴いていられるおとぎ話のような、スカッとした『芝浜』になりました。

最後のサゲで終わったときには、全員が心底大満足の拍手を送ってましたもの。
こんなことも初めてでした〜。

いや〜、お見事!
素晴らしかったです。

三月末のおさらい会では、ぜひこのお二人の『芝浜』をお披露目したいですね。



この日はまた、三喜子さんが「福茶」をおふるいまいくださったのです。
梅干しと昆布をタッパーに入れて、おいしいお茶と節分のお豆もご持参くださり、

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 ←例のこれを、
 みんなで初体験させていただきました。

 熊さんは、あんまり美味かねえな、なんて悪くち言ってたけど、
 おいしかったですヨ〜!
 それが証拠にみんな飲みきりましたもん。(笑)

リブレに戻ってくると、こういう“体験”が出来るのがいいですね。
あったかくってほっこりと、とっても和みました。
三喜子さん、お心遣い本当にうれしかったです、ありがとうございました。



そんなわけで、いよいよ若手も読んでみる、ということになったのですが、
そりゃあこのお二人の後ですものねえ、ましてや馴染みの薄い落語、
壁、かなり高し…

というわけで、
けか子ちゃんとAYAKAちゃんの二人には、立ってやってもらいました。
若い人たちには身体の感覚で掴んでもらったほうが早いのです。

とにかく、女房役のAYAKAちゃんにはなんとしても亭主を仕事に行かせること、
熊五郎のけか子ちゃんには、なんとかして今日も休業にすることをお題に、
本気の死闘に(笑) 集中してもらいました。

自分が思っている以上に熱を出していいんだよ、ということが分かってくると、
AYAKAちゃんもどんどんヒートアップしてきて、
たぶん普段では考えられない、突っ張り!突っ張り!突っ張り!のパワー炸裂に。

もうその必死の形相だけで笑えるんですが、
そこへもってきて、受けるけか子ちゃんのオトボケがまたどんどん上がって、
しまいにゃお腹ボリボリやり出して、
「ぇえ〜?」とか「ぁあ〜?」とか素っトボケる体はまさに、ちっちゃいおじさん出動。

チャーミングなお嬢さんなのに、お腹ボリボリ、、、あんなけか子も初めてみたけど(笑)
あとで訊いたら、なんかそんなことになっちゃったんですよぉ、とか言ってたけど、

もう、その小人さんの夫婦喧嘩みたいな二人の様子がカワイイやら可笑しいやらで、
教室はこれまた大爆笑の渦に。

いやあ、当初はどうなることかと思ったけど、よかったよかった。

熱が上がってくるということは、本気になるということなので、
繋がっていなかった感情もきれいに通るようになって、
気づいたら、若さあふれるフレッシュな新解釈の『芝浜』ができあがっていました。

終わった二人はゼェゼェ言ってましたが(笑) 本当に面白かった。

いやぁ、つくづく、やってよかったです『芝浜』。
こいうふうに〆られたのがまた、もうほんっと頼りになるみんなだわっ、と、
ワタクシ少々感涙なぞしたりもして。

熱ですよ、熱。
コトを動かすのはこの一点です。
これさえあれば、突破できないものはないのです世の中には。(断言したな・笑)

企画を提案してくださった Mumble さん、本当にありがとうございました。
こんなに盛り上がるとは、こんなに身になるとは、ねえ。。
教室のここからに、弾みをつけていただけました。



さて、今週からは岸田國士に戻り、『隣の花』 の解釈に入ります。

これはまた、同じ夫婦ものでも打って変わった世界。
隠微と露骨、ドライと濃密の輪舞(ロンド)、って感じでしょうか(笑)
二組の夫婦のエロチックな駆け引きの物語です。

岸田の中では、個人的には 『顔』 と1、2を争うぐらい好きなホンです。

さてさて、教室はどんなことになるかな〜?
みんなの女っぷり・男っぷりが上がるのは間違いなしだから、震えて待ってテ。
ほほほ。






posted by RYOKO at 08:00| Comment(8) | TrackBack(0) | 新春特別企画 『芝浜』 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月15日

『ロミオとジュリエット』〜秘めやかな誘惑

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仮面舞踏会でジュリエットをみつけたロミオは、ひと目で激しい恋に落ちる。

音楽と踊りと、嬌声と喧騒と。
華やかな賑わしさの隙を突いて、ロミオはジュリエットの手を取る。

そして言うのだ。


ロミオ
もしもこの卑しい手が
聖なる御堂を汚すなら
優しい罪はこれ
僕のくちびるは顔赤らめた巡礼ふたり こうして控え
そっと口づけして 手荒な手の痕を清めよう
ジュリエット 
巡礼さま それではお手がかわいそう
こんなにも礼儀正しく帰依する心を示しているのに
聖者の手は巡礼の手が触れるためにある
手のひらの触れ合いは 巡礼たちのくちづけ

出逢ったふたりは手のひらを合わせ、恋に落ちていく…

いかな「本読み」教室とはいえ、このホンにかかわってこの名シーンを体験しないのは、
シェイクスピアへの冒涜ともいえようもの(笑)
当然、手の動きを入れながらの読みをしてみた。

ここで問題になったのが、手を取ってから手のひらを合わせるまでの流れ。

ロミオはジュリエットの手を取り、突然こんな手荒をした罪を赦してほしいと乞い、
その罪を清めるために、巡礼者が額ずいて聖者の足に接吻するように、
手の甲にキスさせてくださいと懇願する。

ロミオは初めからジュリエットを聖なる愛の殉教者と定め、崇敬の対象とし、
教会で祈る巡礼のように、心のすべてをあなたに預けていると言っているのだ。

その悲壮で純粋な思いに、ジュリエットはほだされる、というより火をつけられる。

見知らぬ仮面の男なのだ、警戒すべき相手であるはずなのに、
ロミオの情熱は戸惑うより先に心を突き崩し、ジュリエットを無垢の塊にしてしまう。

そんなに畏れないで。
手のひらを合わせて心を通わせるのが巡礼の慣わしなら、
わたしのこの手はあなたが触れるためにあるのだから。

ジュリエットが言っているのはそういうこと。
そうして取られた手を解き、手のひらをロミオに向ける、という流れ。

ジュリエットは、取られた手をいったん離さないと手のひらを垂直にできないわけだが、
やってみるとこの離す動作がポイントになることがわかる。

拒否した風にならないように、そっと指をはずしていく。
これはひとつの賭けのようなもの、思いが感じられなければ相手は追ってこれない。
演者の間には密度の高い集中が通い合う。

そして、たなごころを合わせる。
この単純な動作がこんなにドキドキするものとは、みんな初めて知って驚愕していた。

このホンのエクスタシーは、まさにここにある。
バルコニーの場でも、結ばれて別れる夜明けの場でもない。
初めて相手を受け入れた瞬間なのだから。

清らかさとさりげなさを装った、とんでもなくセクシャルな行為。
それが手のひらをぴったりと合わせる動きなのだ。

こういうシーンは段取りにしてはならない。

演じ手同士の自然が絡み合うと、思わぬ化学反応が起きることになる。
自分も相手も次にどう出るのかわからない、スリリングで濃密な時間…

ここにこそ演じる醍醐味がある。
他人と溶け合える瞬間は、そうあるものではないのだから。

まあしかし、演者も人間なので、どんなにセクシャルなシーンでも、
いかんとも相手に反応できない組み合わせがあることも確かではある(笑)

この手のケミストリーは、演者同士の相性がよくなければ起きない。
演劇の奇跡のひとつだったりもするのだから、体験すると生涯忘れられない記憶になる。

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何組もでやってみてわかったのは、ジュリエットは決して受身ではないということだった。
ことほどさように、意外にもジュリエットのほうが明確に誘っているのだ。

初めて会っていきなりのこのスパーク。
あまりにも非現実的な、芝居じみたデフォルメの最たるシーンかと思っていたが、
さにあらず。

ロミオ役に真摯が見えると、そんなにも誠実に情熱的に思いをぶつけてくることに、
自然、you do wrong your hand too much 「かわいそう」 という気持ちになってくるのだ。
この思いの熱さは実際に動作をして初めて感じられたことだ。

可哀想ってのは惚れたってことさ、と言ったのは夏目漱石だったが、
文豪はみんなこういう真理を知っていると思うと震えが来る(笑)

確かに、そう思うと指は勝手に動いてロミオの手をきつく握り返してしまうなどという、
思わぬ反応が起きて自分でも驚くことになったりするのだから。

読解だけでは得られない登場人物の生の気持ちに触れられる喜びは、
こういう中にある。

しかし、手というものは雄弁だ。
実は言葉よりも真実を語るものかもしれない。
この手のひらを合わせる行為は特に、ある意味ではくちづけよりセクシーなものだ。

このへんの話をしていて、手のひらは五感の中でもっとも敏感な部分だからじゃないか、
という意見が出たが、
たとえば洋服を買うときには無意識に手触りをポイントにしているように、
確かめるという行為をもっとも的確かつ熟練ワザで行っているのは手なのだな。

その手でそういう手を感じるのだから。
手のひらをぴったり合わせるというのは。
ものすごく官能的な行為だったのだと、今更ながらにかなり驚いている。

シェイクスピアってやっぱり、とんでもない手練れだ。

『ロミオとジュリエット』を書いたのは、まだ20代の頃だったと思ったが、
こういう生理的な官能性を熟知していたことに驚嘆する。

ロミオは、合わせたジュリエットの手のひらから、指先から、
何を感じただろう。
それがあればこそ、二度もくちづけをねだる挙に出られたのは確かなのだ。

恋は、秘めやかな通い合いであるほどセクシーなものなのかもしれない。
その二人にしかわからない、秘密の華。

これを共有してしまったら、そのひとはもう群集の中の一人ではなくなる。
ふっくりとしたつぼみが、少しずつ、けれど素早くひらかれていって、
気づいたときにはもう、落ちている。

結ばれてはいけない相手なら尚のこと、あっというまに落ちていく。
恋という名の厄介な甘い苦しみに。


  これこそがみなさんにお見せしたかったロイヤルの Dnce of the knights。
  またすぐ消されてしまうかもなので急にアップされた幸運を喜びつつちゃんと観てねと切望。


「もしもこの手が…」
このセリフが始まるまでに、ジュリエットもロミオをみつけていたのだろうか。
それとも、スッと目の前に現れた見知らぬ男に手を取られ、驚いたそのとき、
初めてロミオの目を見たのだろうか。

シェイクスピアの原本にはト書きがない。
書かれているのはセリフだけ。
ジュリエットがどの時点でロミオを認めたのか、この会話がどこでなされたのか、
何も書かれてはいない。

それどころか、直前まで、
ロミオを追い返そうとするティボルトがキャピュレットに叱責される場が続いていて、
うっかりすると見逃すほどに、二人の出逢いのシーンは唐突に始まるのだ。

動きの指定がないということは、いかようにも演出できるということだ。

私なら、周囲の役者の艶なる動きも媚笑の交し合いも、そのまま続けさせる。
けれどロミオがジュリエットの手をとった瞬間、会話は手話のように無言にさせる。
音楽もピタリと止め、しかし楽士たちの楽器を繰る動きは続くのだ。

衣擦れの音しかしない静寂の中、ロミオの恋のささやきが始まる。
深海魚のようにゆらめきさざめく人々を背に、そこは二人だけの世界になる。


初めてのくちづけをロミオから二度も授けられたあと、
ジュリエットは言う。
「お作法どおりのキスね」

原本でのこのセリフは、You kiss by th’ book.

ブックとしか書かれていないのだ。
これはいわゆるエチケット本のことというのが、翻訳の際の定説になっているらしいが、
個人的にはここはそのまま、「本のとおりのキスね」 としたい。

ジュリエットはきっと、恋物語を読んでいたはずだから。
お話のとおりだった・・・そこには、未知のものに触れた驚きと、
思ったとおりのロマンチックを体験できた高揚がある。

ジュリエットは恥じらいながら、震えながら、しかし夢見心地の面差しでこう言ったのだ。


こういう微妙なシーンは、人によって違う流れになるのが面白かった。

若い人は形を整えないと入っていけない人が多い。
熟女陣はむしろ驚くほど素直だったりもして。
残っている恥の分量の違い…とは思ってませんよ(笑)

むしろ、刹那に身を預ける術を知っているかどうかの違いだろう。
今、目の前にいる人に、瞬間、恋する。
まさしくのロミジュリそのものじゃありませんか。

せっかく世界一の恋物語と縁が出来たのだ、
3月が終わるまでこのロマンスに夢中になっていただけたら、
センセイは本望です。(笑)





2016年02月08日

『ロミオとジュリエット』〜恋に落ちる理由(わけ)

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ロミオとジュリエットの運命の出逢いは仮面舞踏会で起きた。
古今の数ある恋物語の中でも、今なおロマンチックの頂点を譲らない名シーンだ。

だいたいこの仮面舞踏会という音と字づらがすでに、秘密めかして華麗すぎる。
わけもなくドキドキする、何かイケナイ期待をつい抱かされてしまう言葉ではないか。

子どもの頃はなぜか 「ぶどうかい」 と発音していたため、
私の舞踏会のイメージは紫、いまだに葡萄酒を連想してしまう。

そんな話を教室でしたら、受講生の一人から、
あたしは武闘会だと思ってたから違うって知ってビックリしました、
とむしろこっちがビックリだよのエピソードが出てきて大笑いになった。


『ロミオとジュリエット』 は数多くの芸術作品のテーマになっているが、
解釈のイメージを広げるのに大いに貢献してくれるのは、バレエの “ロメオとジュリエット” 。

特に、プロコフィエフの音楽にケネス・マクミランが振付けたバージョンが、
非常に演劇的で、素晴らしい。
コスチュームも、見ればどの登場人物かすぐわかる仕掛けになっている。

この舞踏会のシーンで演奏される 「騎士たちの踊り」 は、誰もが必ず耳にしたことのある、
一度聴いたら忘れがたい名曲だ。


というわけで、本日の参考資料。

【まずは音楽とロミオ中心で、ミラノスカラ座版】

※つけていた動画が削除されてしまったためロングバージョンを。(根性・笑)
「騎士たちの踊り」 は04:25からです。

ね、聴いたことあるでしょう。
ロミジュリの中でももっとも有名な曲が、仮面舞踏会のテーマだったわけ。

ロミオとジュリエットが出会った瞬間、わかりましたね?
震えが来るほどドラマチック。
伝統的解釈のバレエには、この瞬間はない。
ケネス・マクミラン、さすがはシェイクスピアの子孫たる英国人、文学的ツボを外さない。

スカラ座版で出色なのは、演劇的にはこのロミオだ。
まずハンサムで非常によろしい。(笑)

実は、文字で読むとロミオはかなりアンニュイ、というか女々しかったので、
教室の女子軍は驚いたのだった。
現状、どこがいいんだこんな男というストップ安から上昇できないキャラなのである。
主役なのに。

ところがこのアンヘル・コレーラ演じるロミオは馬鹿に明るい。
ほとんどアホちゃうかというぐらい陽気。

これが、実はロミオの解釈に大きなヒントをくれる。
もしかして、一幕に居並ぶ苦悩のセリフも、このアホちゃうかなノリで騒がしく喋っていた?
と思えてこないだろうか。
イタリア男だし。

そう、ロミオはハムレットではないのだ。
恋する青年なら、ジェットコースターのように感情が乱高下しても不思議はない。
そのほうが若々しいし、のちの悲劇との明暗もクッキリする。

アンヘルの姿でロミオを読み直してみると、まったく違う世界が現れる。
たぶん、良識の塊のような親友ベンヴォーリオのキャラも違って見えてくる。

ミラノ版が惜しいのは、キャピュレットとパリス、ティボルトの衣装が、
周囲と同化しやすいデザインになっていて男性陣のキャラがいまいちよく見えないところ。


【個々の人物像がよく見えるのは、なんといってもロイヤルバレエ版】

この英国ロイヤルバレエ団の 「騎士たちの踊り」 もあったのだが、
残念ながら著作権の関係で見られなくなってしまった。
ここに掲げるのは冒頭の群舞が終わった直後、ジュリエット登場から。

がしかし、演劇的に見るにはここは非常に参考になる。

なんといってもシニョール・キャピュレットのキャラクターの立ち方が見事。
演じるクリストファー・サウンダースのおかげですっかりキャピュレット贔屓になってしまった。

このロイヤルバレエ団のコスチュームは非常にわかりやすい。
黒銀がキャピュレット、白金がパリス、赤銀がティボルト。
もう見ただけでそれぞれの役が持つ重厚感まで伝わってくる。

芝居パートはそれぞれがキャラ立ちしているため、バレエであることを忘れるほどだ。


このキャピュレット側の男性陣3人と、ジュリエットを演じるタマラ・ロホとのバランスが絶妙。

タマラのジュリエットはこよなく優雅で、はかなく悲劇的。
この娘には初めからシリアスな運命が待ち構えていることを予感させる。

一方で、彼女がまだ恋を知らぬ13歳の少女ということを考えると、
実は吉田都のジュリエットが一番リアルかもしれない。

軽やかで楽しそうな子供っぽいジュリエット。
特筆すべきは、パリス役が彼女にいつもニコニコ向かっているところ。
本当に心からジュリエットが好きなんだなあと思えて面白い。

この汚れなき娘がみずからとてつもない悲劇に転がりだしていくと思うと、
哀れさひとしおという気持ちになる。



【ロミオとジュリエットが恋に落ちたわけ】

先週の講座で大きなテーマとなったのは、ロミオとジュリエットはなぜ恋に落ちたか、
正確には、
ジュリエットは何が決め手となってロミオを選んだのかだ。

ロミオにとって、実はジュリエットは初恋の相手ではない。
ジュリエットに出会う直前まで、
ロミオは同じキャピュレット一族のロザラインに狂っていたのだ。

ロミオのいとこにして親友のベンヴォーリオには、
他の娘を知ればあっという間に忘れる軽い気持ちだと看破されている。
これは、はからずも後の悲劇への予言ともなっているのだが。

このロザラインという娘は、なぜかロミオを徹底的に遠ざけている。

甘い言葉にも流し目にもなびかない鉄の処女、尼僧のように硬く厳しい態度で、
それが一幕でのロミオの憂愁の原因になっている。
ロミオは、そもそもロザライン会いたさにキャピュレット家の仮面舞踏会に乗り込むのだ。

それもこれも彼女がつれないゆえ。
しかし、恋とは、相手からあまりに無視されたらおのずと冷めていくものだ。
そこまでの仕打ちをする人間が自分と合うわけがないと悟るからだ。

が、ロミオの熱は嵩じる一方。
つまりは相手を自分の現実の中で捉えていないのだ。

ロザラインはアイドルのようなもので、
恋する男でいる自分に酔っているだけだということに、ロミオはまだ気づいていない。

ジュリエットの背景もまた複雑だ。
ヴェローナ大公の甥であるパリス伯爵との縁談を抱えているのだ。

パリスという名は美男の代名詞、物語中でもヴェローナの花とまで言われている。
実際、パリスはノーブルでやさしく、何より本心からジュリエットを望んでいる。

良家の娘なら誰もが嫁ぎたい理想の相手であろうに、ジュリエットは乗り気になれない。
母親からは、パリスの目を見ればきっと愛せるようになると婉曲に迫られつつ。

この、「目を見る」 というのが、このホンでは恋の試金石、肝なのだ。

ジュリエットは舞踏会でパリスと踊ってその目を見ても、やはりピンと来なかった。
一方で、仮面をつけて顔が半分わからないようなロミオに、ひと目で恋しているのだ。

この違いはなんなのか、少し考えてもらったら面白い意見が出た。
パリスの目には 「家」 を感じるから好きになれないというものだ。

つまり、パリスにとっては恋だったとしてもジュリエットのほうが、
大人の政治臭を察知してしまってダメというもの。

ジュリエットはまだ初恋も知らないうぶな娘なのだ、
恋をしたい!と思う気持ちが何より優先されるのは当然の年頃だ。

これはいいところを突いている。
パリスに、よしんばおだやかな愛までは感じられても、それは恋の情熱ではないのだ。
ロミオの目からは、その情熱があふれだしていたということ。

ひとことで言うと、これはアニマル・マグネティズムというのです。

動物的な磁力。
磁石のように、どうしようもなく引き付けあう本能のほとばしり。。

キリスト教徒として規律に準ずる生き方をしながら、西洋には裏にこんな言葉があるのだ。

そこには理屈はない。
そういう相手と、二人は出会ってしまった。
それはまさしく、お互いの運命と出くわしてしまったということだ。

と思うと、ロザラインはロミオにはアニマル・マグネティズムを感じなかったのかもしれない。
あるいは、リスクの高い敵方の息子などはなから愛情の対象とは思えない、
ティボルトと同じ筋金入りのキャピュレット原理主義だったのかもしれない。

それとももっと大人で、アニマル・マグネティズムの危険を感じていて、
そんなものに人生を預けるなど愚かしすぎる、とすら思っていたのかもしれない。

ロザラインを、いずれ良いところに嫁ぐ気まんまんの超現実主義者と仮定すると、
ジュリエットの情熱の激しさや意志の強さ、純粋さがよくわかる。

この物語は、たった五日間の話なのだが、
二人は、アニマル・マグネティズムを知った瞬間から大人の階段を駆け上り、
大人以上に成熟して命を完結させたのだ。

まあ平たく言うと、ジュリエットはパリスをセクシーだと思えなかったということだ。

こればかりは蓼食う虫も好きずき、他人の感覚は基準にならない。
とはいえロミオは大変な美形なのだけれど。

恋とは、見も蓋も無い言い方をすればセックスしたいということの言いかえだ。
生き物はみな自分の子孫を残すために生きているのだから、何も忌み嫌う言葉でもない。
明け透けがいいとも、無論思わないが、命の持つ情熱とはそのぐらいナマなものなのだ。

今、なかなか恋愛が出来ない人が増えているというのは、
この生き物としての生々しさを肯定しづらい世の中になっているからかもしれない。

社会人としてはパリスやロザラインのように常に完璧に整った如才なさがベスト、
そのほうが生きやすい。
だが、アニマル・マグネティズムはその対極にあるものだ。

社会人としてのソフィスティケイトを目指すと、本能的なエモーションは邪魔になる。
時代もまた、そうした洗練を現在まで要求し続けてやまない。
ロミオとジュリエットは、素朴な時代の最後の分水嶺に生まれ落ちた恋人同士だったとも、
言えそうに思う。

シェイクスピアが書いたという印象で格調高さばかりを意識して読んでしまいがちだが、
舞台はイタリアなのだ。
『ロミオとジュリエット』は、ラテンの熱いノリで解釈したほうがすんなり通るホンだ。


というわけで、オマケの映像。

ニナガワで鍛えられた本邦当代のロミオ役者が無茶ぶりに応えているものだが、
生瀬勝久と古田新太という小劇場界名うての手練れが目指すところは、
シェイクスピアの神髄を的確に突いていてさすがだ。



続き ■vol.2 ■vol.3

ばかです。(笑)
が、お正月に見た蜷川さんの特集番組での藤原竜也よりこっちのほうが凄味を感じるのは、
この人が本物だという証しですね。

なんだか今回は貼り付けばかりの記事になってしまったけれど、
ビジュアルの説得力っていうのはやっぱり凄いですからねえ、いい時代になったもんです。

はい、扉絵のラファエル前派フランク・ディクシー卿の絵画も含め、
ご紹介したあまたの美しき芸術家の力をお借りして、
今週はさらにヴィヴィッドに、とみお…いやいやロミオとジュリエットの二人に、
会いにいきましょう。

※注:まちがってもジュリエットは古田新太で想像しないように。







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2016年02月02日

『芝浜』 第三回:江戸に想ふ

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『芝浜』 第三回は、亜呂波亭ロコ輔さんにご参加いただきました。

身ごろが赤と黒に分かれたモダンで粋なお召し物に、銀糸の縦縞の白い羽織と、
目の覚めるような装いでご登場くださったので、受講生さんたちも思わず、おお〜…
口数が少なくなったぶん、目がキラッキラと輝やくかがやく。(笑)

ああいう凛と華やいだ空気に触れるというのも、初めての体験だったかもしれませんね。
伝統芸能にたずさわる方は、みなさん独特の品格を放ってらっしゃいます。

受講生さんたちに違う世界を感じてもらおうというロコ輔さんの心意気が、
とても嬉しうございました。

装いというものは、手みやげというか、「情け」なんですねぇ、
あらためて、しかし目からウロコの発見もいただけました。


噺家さんは、なにせ話す人ですから、
活字を読んで伝える朗読とは気の持ちようの根本が違うわけで、
慣れた 『芝浜』 をあらためて字で追う、しかも根掘り葉掘り(笑)
表現の差というものをしきりに感じていらっしゃるようでした。

実際われわれも、ホンを離して立ち稽古に入ると、
体の実感がセリフを支えるようになっていって、
覚えて話すのと持って読むのでは、やっぱり熱もリアルもまるで変わりますよね。

以前、まだリーディングというものがこれほど一般的でなかった頃に、
そのさきがけとなるような企画に参加したことがあるのですが、
そのときの演出も、最終的には少しカラダの表現を入れる形を取られました。

読む嘘というものに我慢できなかったんじゃないかと思います。

セリフが伝えるものは実感がすべて。

と言いきっても過言ではないと私は考えているので、
「読み」 も頭でやっちゃだめだと思っているのです。

この教室もその獲得を目指して立ち上げたんですが、
あのときの演出家も同じことを思われていたのが、今になるとよくわかります。

噺となれば尚のこと。
ロコ輔さんの声からは、私がこれまでに体験したことのないものが届いてきました

ご本人は、文字を追うということで演劇寄りの表現になったので、
噺とはまったく違うとおっしゃっていましたけど、
やっぱり俳優のアプローチからは得られない実感を――私が欲しい実感を(笑)
シャワーのように浴びせていただけたんですよね。

なんというか、凄い包容感という感じで、無理というものがまったく感じられなかった。

受講生のお嬢さま方も、なんだかわかんないけどフワ〜っと、
不思議に包み込まれるようなやさしいあれはいったい何だったんだ?!と、
興奮しきりでした。

実はこのフワ〜っと感を、前日の 『芝浜』 クラスでも私は体験していまして。

今季からプロのナレーターの男性がご参加くださって、その初回だったのですが、
そのかたからも、同じ、得も言えぬ包み込み感をいただけたのです。

思えば、噺家さんもナレーターさんも、肉体によらずに言葉を繰るお仕事ですよね。

声のみで伝える、ということの本質を、
期せずして同じタイミングでお二人の男性からいただけて、
ありがたいことに、第三回はジュエルの輝きの教室になりましたね。

年齢もキャリアも、みな違う人間同士が集まっている講座ですから、
その気になれば、どなたもいくらでもご自分の求めるものに出くわせると思うんです、
この教室をそんな風に使っていただけたら、私は本望ですねぇ。

さっそくロコ輔さんからは、出張高座で教室に来てくださるお申し出をいただけて、
ヤッター!
ジャンルを越えて、どんどん広がっていけば、いいですよね〜豊かですよね〜。


落語の基本は、「言葉に演技が奉仕する」 というものなのだそうです。

落語の説得力は、あくまで声の力によって生まれるもので、
しゃべりだけで時間も時代も場所も状況も、もちろん人物も、表現しないとならないので、
声のコントロールということを演技より重視されているとお話ししてくださいました。

話芸というものは、聴き手に押し付けてはならないものということでしょうか。

それは芝居も同じですけど、演技者の場合はヘタクソでも心情があれば伝わる、
という事もあり、場数を踏むほどかえってそのナマ感の獲得に必死になっていきますが、
落語の場合はまず、ヘタじゃ勤まらない厳しさがあるということかもしれませんね。

技術というものは、やはりおろそかにしてはならないものなのですね。
そうして私が感じているシビアな事実は、センスがなければ技術は身につかない、
ということだったりもします。

センスあっての技術なのです。

でもセンスって身につくんですよ。
俳優の場合は、「実感を再現できる力」 のことだと私は思っているのですね。

そのためには色んな経験をしたほうがいい、痛い経験ほどいい。
そして、その痛みを刻み付けて絶対に忘れないこと。

それがセンスを磨くと、私は思っています。
人としては、ゆえになかなか生き辛いことにもなるわけですが。(笑)
まあこの話は、また別の機会にでも。


ロコ輔さんとお手合わせしていただいて、ひとつ大きな発見をしました。

芝の浜で財布を拾った、あれは夢だったのだと騙された勝五郎に、
心底申し訳ない気持ちになったんですよね。

だから、亭主が 「すまねえ」「悪かった」 と謝るたびに、その言葉は聞きたくなくて、
明るいほうへ明るいほうへ気を引き立ててやりたくなった。

ごめんねって言うのはあたしのほうだよと、泣きたい気持ちになりました。

この女房は、三年間ずっとこの重石を抱えてきたんですよね。
あの日から真実、亭主を愛しぬき、労わり大事にしてきたんだなと、
実感できました。

一つ間違えば、夫をたばかる小ざかしい女になりそうで、
難しい役だなと思っていたのだけど、
小ざかしくてもいいんだと思った、
それをやったあとで、心から、「ごめんね!おまいさん!」 って心が振り絞られれば。

『芝浜』 の二人は、成長していったんですね。
こうして 「人」 になっていった。
それが人々の心を打つんだな。。

『芝浜』 と、ご縁があってよかったなあ。
ロコ輔さんとも、実はお会いしたのは初めてだったんですけど、
お導きがあってよかったです。

教室は、こういう化学反応が起きる場所です。

新しくて心ふるえるような自分との出会いを、今週もみなさん、ひとつでも、
していただけたらいいなと願っています。





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2016年01月29日

『ロミオとジュリエット』〜謎ときの旅のはじまり

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『ロミオとジュリエット』 の講座が始まっています。
こちらのクラスはまた、『芝浜』とは違う独特の快感があるんですよね〜。

文学的アプローチから未知を解き明かしていく集中には、
なにか心を浄化してくれる作用があると、いつも感じます。

楽しさもひたひたと忍び寄ってくる肌ざわりで、気づけば軽い興奮状態になっていて、
もっともっと知りたい!という思いが、新鮮なオレンジを噛むようにあふれだすのです。

体験受講でいらした方も継続になってくださいました。
昨日まで知らなかった人と一緒に新しい扉を開けていく…思えば極上の出来事ですよね。
この熱い歓びもまた、教室を開いてみて初めて知ったことのひとつです。

さて、『ロミオとジュリエット』 です。
訳者によっては文庫本で240ページに至る長尺、教室では一幕から順に追いかけます。

な、長すぎるので、しかも内容がまた濃すぎるので、最後まで行き着けなかったら、
まあ夏からの教室に持ち越しでもいいやと、腹を括ることにしました。(笑)
実際、大急ぎでやるにはもったいなさすぎる名作ですからね。


【プロローグを置いたワケ】

このホンには、プロローグがある。
芝居の始まりと共に、序詞役(じょしやく)というキャストが出てきて前口上を語るのだが、
この内容がビックリすぎる。

物語の始めに、結末をネタばらししてしまうのだ。

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普通、物語というものはラストシーンを隠すものだ、
そこにこそ、時間をかけてその世界とつきあった醍醐味があるのだから。
シェイクスピアは何故こんな構成にしたのだろう。

彼のほかの作品に、オープニングで結末まで開示しているものは無い。
まして上演時間にまで言及しているのはこの作品だけ。

もしもこのプロローグが無かったら、観客は若い男女の純粋な恋心に酔いしれたまま、
二人が自殺してしまうという悲嘆のどん底に突き落とされることになる。
ショックが物凄いだけに、ほかには何も思い至れなくなる。

シェイクスピアは、それを嫌った。
彼が観客に提示したかったものはもっと深い、運命への俯瞰といったものなのだ。

序詞役は 「二時間」 と言っているが、実際の上演時間は3時間以上になる。
「二時間」 は記号なのだ。
恋の始まりから悲劇的結末までほんのちょいの間で突っ走る、という誘導がなされている。

ロミオとジュリエットが出会うのは、芝居が始まってほぼ30分後。
二時間と聞いた観客は、
やっと出会った二人が、残りわずか1時間半で心中するのだと思うことになる。
観客の無意識には、この二人には時間がないという切迫が擦り込まれる。

その切迫感はそのまま、若い二人の恋情の激しさとリンクしていく。
それはまた、運命というものの厳しさを身に沁みさせる一因ともなる仕掛け。

つまりは、観客の興味は、何が起きてなぜ死ぬことになるのか、その一点に絞られる。

死ぬことが分かっているのだから、「なぜ」 ということが最重要になるのだ。
その 「なぜ」 こそが、シェイクスピアが見せたかったものということになる。

なぜそんなことになったのでしょう?

それはこれから、一人一人の解釈によって導き出される。
「あなたの答え」 を探していただくのが、このクラスを開いた意義なわけです。


【劇場構造がもたらす芝居運び】

上では一幕と書いたが、実はシェイクスピアの原本には 「幕場」 が書かれていない。
一幕一場のような区切りは後世になって便宜上加えられたもの。

これは、当時の劇場の構造によるところが大きい。

シェイクスピアが『ロミオとジュリエット』を初演した小屋(劇場)はグローブ座ではないが、
構造はだいたい似たような作りで、舞台センター奥にカーテンで仕切られた開口部、
左右に役者の出入り口 (この図では赤い柱の蔭になっている部分) というのが基本。

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たとえばジュリエットが仮死の薬を飲む場面などは、センター奥を自室としておこなわれ、
ジュリエットが倒れてカーテンが閉まるか閉まらないうちに、
上下(かみしも・舞台の左右)の出ハケ口から役者がセリフを撒きながら登場、
舞台は一転、大広間ということになり、即座に次のシーンが始まるという、
スピーディーな展開で芝居が進んでいた。

ちなみに、この二階部分を有名なバルコニーのシーンに利用した。
というかこの構造だったからあのシーンを作ったのかもしれない。
グローブ座の場合は、本来は観客用の桟敷席。

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この古い図はちょうど 『ロミオとジュリエット』 を上演しているところに見える。

劇場は半野外で舞台は張り出しているため、天井はあったとしても雨風はしのげない。
セットの無い、いわゆる素舞台(すぶたい)の状態で、
物語は役者のセリフや動きでのみ進行する。

照明が無いため芝居は日中おこなわれる。
暗転が出来ないのだから、小道具や置き道具の出しハケも芝居なかで行われる。
(ゆえに自分の行動や物の動きを指示する説明ゼリフが多い)

現在のようにセットチェンジで別のシーンを作ることはなく、
いわんや緞帳など存在しないのだから、「幕」 という概念自体がなかった。
というか舞台セットという概念さえなかったと思われる。

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Shakespeare's Globe --London

芝居は始まったら最後、切れ間なくノンストップでラストシーンまで行く。

舞台の周囲は立ち見席で、かなりの高舞台(たかぶたい・舞台部分が高いということ)のため、
最前列の客は舞台に腕を置いて見られるほど。
観客は自由に場所を移動できるので、私語も多い開放的な状況だったと思われる。

役者もだが観客も、悪天候の上演時は大変。

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シェイクスピアの芝居はなぜあんなに早口でまくし立てるのかと思っていたが、
セリフの分量の問題以上に、役者の演技力だけを見せる芝居だからかもしれない。

この、セットのない素舞台で役者たちが早い長ゼリでパワーを放出する芝居というと、
おのずと思い出すのはつかこうへいだ。

日本のアングラ演劇の概念を塗り替えたあの若さあふれる舞台と同じものを、
エリザベス朝の人々は、シェイクスピアの芝居に見ていたのではなかろうか。
ものすごい熱狂で迎えられた気がする。


【モンタギュー家とキャピュレット家の諍いの理由】

『ロミオとジュリエット』 の初演は、だいたい1595年頃というのが定説。
16世紀末に書かれたこの芝居の舞台は、14世紀のイタリアの古都ヴェローナ。

ヴェローナはイタリア北部、アルプス南麓に位置する古来よりの交通の要衝。
イタリアからオーストリアに抜ける南北路と、
ジェノバ―ヴェネツィア間を結ぶ東西路が交差する地。

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物語より百年ほど前、ヴェローナはこの地政学的影響と相まって、
神聖ローマ皇帝の後押しを受け、周辺諸国を征服し盟主となるが、
ローマ教皇が神聖ローマ皇帝を破門したため戦争になる。

以来この地の支配層は皇帝派と教皇派に二分され、熾烈な争いをするようになった。
物語のベースは、この歴史的事実を踏んでいると言われる。

ロミオのモンタギュー家は皇帝派、ジュリエットのキャピュレット家は教皇派。
皇帝派は封建貴族や地主層が多く、教皇派は新興の大商人層が多かったとされる。

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【名前にこめられた意味】

『ロミオとジュリエット』 の登場人物の名前には、それぞれ意味が隠されている。
英語圏の観客はスペルを見てそれぞれのキャラクターをイメージできる。

大公
エスカラス

ESCALUS

実在のヴェローナ大公スカリジェリ(デッラ・スカラ)家より。
スカラーは英語で天秤の意。天秤は裁判所のマーク。

モンタギュー

MONTAGUE

Mount を想起させる。そびえ立つ旧家のイメージ。

キャピュレット

CAPULET

Capital を想起させる。資本家のイメージ。

ロミオ

ROMEO

イタリア語でローマへの巡礼の意。
巡礼は恋人への呼びかけ語でもある。

ジュリエット

JULIET

イタリア語名では女性名詞につきジュリエッタになる。
若々しい意味のJulia+可愛らしいを意味する愛称 etta。
July (聡明・明朗の意味有)と同じ語源、7月生まれ。

マキューシオ

MERCUTIO

Mercurius(メルクリウス=マーキュリー)を想起。
メルクリウスは世界にゼウスの意思を伝えて回る韋駄天。
スピーディーで雄弁な神。

パリス

PARIS

スパルタ王妃を略奪しトロイア戦争を引き起こした王子の名。
権力よりも戦勝力よりも世界一の美女を選んだ美男の優男。
パリスの審判」 元来は軽薄な軟弱者をイメージする名。

ティボルト

TYBALT

イギリス諸島の古い民話 『猫の王』 のタイトルロールの名。
ネズミ捕りの意味。

ベンヴォーリオBENVOLIO「善意」 という意味。
   



…講座内容全部は、とてもじゃないけど書ききれませんね。

まだまだ、ロミジュリの背景調査は始まったばかり。
しかし解釈は、
こうして外堀を埋めていく中でいつのまにか「確信」に迫っているものなのです。

次回はさらにたくさんの質問が出る時間になればいいですね。
疑問は知性の鍵ですから。

さあ、小さかったり古かったり、透き通っていたり重かったり、
扉は居並んでいますヨ。
次はどこからあけていきましょうか。








2016年01月25日

『芝浜』 第二回:江戸に迫る

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第二回は、柳家さん喬師匠の書き起こしテキストを読みました。

台本は志ん朝さんの半分の厚みしかなく、
噺も動画で聴くと30分もかからずに終えてらっしゃるのですが、
テンポはむしろ倍ぐらいにゆっくり。

実際に読んでみたら、話がパンパンと進んで凄い急展開をしていくんですね。
ヘアピンカーブの連続とでも申しましょうか。

これは、スイッチをしっかり利かせて、緩急の山をしっかり自覚的に作っていかないと、
筋さえ伝わらないものになってしまう。。
難しいホンです。

芝居をしていても観ていてもいつも思うのですが、「山」 というものは本当に大事。
自分の役でも芝居全体でも、山をみつけてそこに向かってそこを立てようとすることが、
何よりの肝です。

解釈というのは、構成全体の中からこの山を探し出すことなのですね。

『芝浜』 の山は二つ、騙しとバラシです。
どちらもリードを取っているのは女房ですが、これが成立するのは、
ひとえに勝五郎のキャラクターあってこそ。
現実を夢だと言いくるめられてしまう人物像を、嘘なく描けるかどうかが肝なんでしょうね。

まあ、今は全員で少しずつ回して読んでいるので、
こまかな表現テクニックが中心の講座になっていますが、期間を延長しましたからネ、
この2本の落語作品のどちらかを、それぞれが通しで読みきることが目標です。

さん喬版は、“ドラマティック”には欠かせない、大胆さ・骨太さが身につくと思います。

志ん朝版は、繊細になめらかに、気づいたらお客さんも手の上で転がされていた、
というようなスライドの妙を学ぶに絶好のホンだと感じます。

どちらも、演じ手にとっては、ノドから手が出るほど欲しい魔法です。

同じお話なのに真逆の向き合い方を打ち出せる、やっぱり『芝浜』は名作なんですね、
観客にとっても演者にとっても。

今季はぜひ、おうちでも作品に触れる時間を増やしていただきたいです。
落語は成果が分かりやすいので、予習復習をしただけすぐに力になっていきますヨ。

声に出して、本気で騙される自分、本気で騙す自分をみつけていってほしいです。


(笑)そうそう先週は、ひとつ面白いことを発見しました。

今、『ロミオとジュリエット』 の講座も始まったのですが、
特に女子に男性のセリフを喋らせると、うまいんですよこれが、
翻訳ものならではの硬いセリフに、品格と男気と切れ味まで出してきて、
みんな異様にかっこいい。

ところが、『芝浜』 になると、とたんに四苦八苦、というか、どどどうしたおい?
とツッコミが入るほどの七転八倒ぶりなんですね。

「に言ってやんでィ、っとにもゥ」 のような独特の表記に振り回されるということも、
確かにあるのですが、『ロミジュリ』 のほうがむずかしく硬い言葉遣いだったりするのに、
ここは難なくクリアできてるこの不思議。(笑)

これ、たぶんね、
若い人たちは、『ロミジュリ』 はアニメの感覚で読めるんだと思うんです。
男たちの壮大な戦い、みたいなものに感応しやすいというか、慣れていて、
イメージがパーッと広がるんでしょうね。

一方で和もの、商いだの朝湯だの、飲む打つ買うだのメシがどうした銭がどうした、
というこまごました庶民の人情噺には、
本当に馴染みがないんだなあと、これはちょっとビックリしました。

世代間格差というか、大げさでなくこの国の文化の断層を実感したです、ホントに。

私より上の世代の受講生さんたちは、落語はもうお手の物なんですよね、
みなさん上手いですヨ〜。

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 お一人などは、
 実は芝浜の女房を演ったことがあった、
 なんて発覚したりして。

 そうそう、こういうムードですね、
 愛情あふれるまなざしで亭主を支える、
 働き者の女房。

 この道20年のベテラン、浜三喜子さんです。
 真っ先にご応募くださった、
 『顔』 クラスの頼れるリーダーです。

アニメのおかげでイマジネイションを広げる術を持てているなら、それは強みでもあります。
絶対ほかへの応用もできますからね。

逆にまた、慣れているものは 「きれいな鋳型」 にハマりやすくなるので、
その罠は誰もが自覚しなくちゃいけないところでもあるわけですが。

きれいに読めるということと、よく伝わってくるということはまったく別のことで。

ゲストで来ていたリブレ主宰の読みは、マジもんのアル中を疑う迷走っぷりで、
江戸っ子でもなければ魚屋でもありませんでしたが、とにもかくにも爆笑でしたもんね。
みんなが大笑いしたのは、ぇえええ〜? と困り果てた心情が伝わったからですよね。

まずは本気があること。
どこからどこまで。

やっぱりこれが表現の原点ですね。


扉の絵は、男になってからの勝五郎さんって感じですね、おかみさんが幸せそう。
『芝浜』 となるとこういう絵を探して塗り絵するのが、このごろの頭休めのマイブームです。

この絵の魚屋さんのキリッと安定の面差しが、さん喬さんの勝五郎にはピッタリだなと。
そうそう、さん喬さんてば、
やっぱりあの声にメロメロになってる女性ファンが多いんですって。

末廣亭までは3分のご近所ですからね、教室の女子隊でぜったい迫りにいかなくちゃ、
さん喬さんに、、ではなく江戸にね、江戸に。(笑)







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2016年01月17日

『芝浜』 第一回:江戸に酔う

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『芝浜』 第一回、いやぁ盛り上がりました〜。

落語はもしかしたら、聞くより演るほうがおもしろいかもしんない。
まあ、聞くと演るとぁ大違い、ありゃりゃ…ってことも、
やってみてわかったわけですが(笑)

あの独特の調子で走り出すと、あっという間に世界に引き込まれちゃう。
落語っていうものは、どんどん気持ちが開放される、
聞いてるほうにもそれが伝染ってって、みんなが一つになりやすい。

ある意味、お酒飲むより酔うかもしんないですね。
ゲラゲラ笑ってましたからねみんな、言い間違えさえ肴になる感じで。
ああいう無邪気な罪のなさっていうのが、お江戸の魔力ってことなんでしょうかねえ、
日本人のDNAを持ってる快感に打ち震えた時間でした。

おもしろかったのは、それぞれの個性が芝居をやるより明確に見えたことで。

話芸っていうのは、そういうことなんですね、
もちろん「役」にはなるんですけど、素で勝負ってところが大きい。

芝居の場合は、役からはみ出るのは基本御法度という堅固な枠があるわけですが、
落語は自分が話すわけだから、むしろ話し手の人間性がどんどん見えてきちゃう。

隠れ蓑があるか、裸を晒すかの違いと申しましょうか。

一枚まとうことがなりわいの役者にとっては、このへんかなり度胸がいるんですね。
ヤケに恥ずかしい!って言ってるメンバーが多かったのが印象的でした。
いや、実際おそろしい芸ですわ、落語。(笑)

古今亭志ん朝さんの噺を、テキスト化してもらって読んだんですけどね。

随所に出てくる「ええ?」とか「なあ」とかいう、“おのれ合いの手”みたいなアレが、
どこにどう入ってくるかというのは、志ん朝さんの語り口のクセなんだけど、
役者はここに苦戦するわけですよ、
言葉として再現しようとしちゃうんで、つい何か意味を持たせてしまうんですね。

いやいや、単に調子を整えるための生理的な音だから、ってことなんだけど、
これは芝居の台本には無いものなので、新鮮、かつスリリングで、
カルチャーギャップをもっとも感じた、妙味のあるところでしたね。


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時代の違うホンに当たるときはお勉強は欠かせないのですが、
この 『芝浜』 に出てくるのは、
江戸情緒を言葉のみでかもし出そうというわけですから、
お江戸の魚屋さんの持ち物や扮装、小道具ひとつとっても分からない名詞ばかりです。

でもこういうのは自分で調べたほうがいい、というかそのほうが圧倒的に楽しい。

私がああ!と見つけたのは、「福茶」 と 「笹」 の意味。
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ほぼスープ…(^ ^:)
福茶 (ふくちゃ) とは、お正月や節分などに出す
昆布や梅干などが入った縁起物の緑茶、
ということだったんですが、
なんか飲み物として強引じゃないですか? 不味そうで(笑)

いや、噺の中で魚屋の熊さんもそう言ってるんですけどね。
私も、いくら縁起物でも大事な節目に不味いもの飲むなんてヤダなあと思い、
何のこだわりが? と疑問が湧いたのです。

そしたら、柳家さん喬さんの 『芝浜』 で、ひとくち飲みながら、
「福じゃ、福じゃ」 って言ってるのを聞いて、あー!語呂あわせを楽しんでたのか!と。
これならやせ我慢が信条の江戸っ子は喜んでやるね、と納得したのです。

そして、「笹」 ですが、
これもかなり唐突に出てくるので、ん? とノッキングするところ。

これはですねぇ、もともと 『芝浜』 は三題噺 (さんだいいばなし) といって、
休憩中に、お客さまから三つのお題をいただいて楽屋で組み合わせて筋書きを作り、
すぐに高座にかけるという、取って出しの荒業(笑)から生まれた噺だそうで、
「酔っ払い・芝浜・財布」 という三題だった、というのが定説なのですが、

もうひとつ、
「増上寺の鐘・財布・笹飾り」 という説もあると知って、あー、この笹なのね、と。

何がなんでもねじ込まなくちゃいけないので、あんな急に出てきたんですね。
そういうライブ感を知って読むと、
噺も終わりがけになって笹が出てきたところで、お客さんはドッ!と湧いたろうなと。

お見事ですもんねえ、お江戸の寄席の楽しさが実感できますよね。
調べてよかった。
 
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商売繁盛 笹もって来いこい♪
ちなみに、笹は、
根強く、繁殖力も強く、風雪寒暖にも強い、
ということで、
古来より神聖な植物として愛でられ、
葉がサラサラと擦れ合う音は、
神さまを招くと言われてきたようです。

笹はタダだが飾りにお金がかかるようで、
魚屋の熊さんのお宅でも、
福笹を求める余裕が出来たんですね。


『芝浜』 は、目利き腕利きの魚屋でありながら仕事に身が入らず、
酒を飲んではサボることばかり考えているダメンズの熊五郎が、
革財布を拾ったことで真人間になっていくという、煎じ詰めればそういうお話。

大ネタなだけあって(1時間前後かかる)、聴けるのは大御所の噺ばかりなので、
この夫婦も30代か、へたしたら40代ぐらいのイメージで、
なるほど演劇的に言うなら、主人公夫婦の 「再生の物語」 なんだなと思ったのですが、

もう一つ、
これって 「成長物語」 にも出来るんじゃない? と、
わたし思いまして。
この切り口でやってる噺家さんがいてもよさそうなものなのになあと、
思っていたら、やっぱりいらっしゃいましたよ。

そう、福茶のフォローを入れてくださってた、柳家さん喬さんです。

さん喬さんの魚屋(こちらは勝五郎)の、キリッといなせな声を聴いたときに、
ああ!これは若い二人の物語だ!これはまた別のいじらしさに涙できる、
と嬉しくなっちゃいました。

『芝浜』 には、大きく分けて二筋あるんだそうですね、
志ん朝さんの噺は、華やかで安心して笑える伝統的な古典、
さん喬さんの噺は、三代目桂三木助師匠の流れにある文学的な新作、
ということになるようで。

正直、女房の第一声を聞いたときには、く、暗っ!うらめしや〜って言いそう、
なんて思っちゃって一瞬聞くの萎えたんですが、ところがどっこい、この人の勝五郎が、
ものすっごい色っぽさ!

それで最後まで聴いちゃって、女房の口説き場まで来たらもう号泣に。
同じ噺なのに、こんなに違うんですよ。
このバージョンを知ってしまったら、ちょっともう素通りはできなくなってしまって・・・
全身耳でテキスト聞き起こしました。

はい、第二回はこの、さん喬版 『芝浜』 を読みます。

必聴です。
さん喬師匠の、水も滴る艶っぽい勝五郎を確かめてください。


たぶんこのおかみさんは、『天皇の料理番』 の黒木華さんみたいな、
喜怒哀楽がおとなしい、けれどしっかり芯のある女なんだなーと感じました。

演劇人にとっては、ドラマチックなこちらのホンのほうがやりやすいかもしれませんね。

今回は受講生さんから自発的に出た企画。
こういうのは大歓迎ですね、
教室をご自分の興味の実現の場にしていただくという理想が、早くも動き出したわけで、
意気に感じてわたくしも、『芝浜』 豪華二本立てにしてしまいました。

名人お二人のホンを比較して勉強できるなんて、ゴージャスにもほどがありませんかい?

そんなわけでこの 『芝浜』、期間延長することにしました。
一回ずつ当たって終わりなんて、もったいなさすぎるぅもっとやりたいぃいいい、と、
受講生さんたちから阿鼻叫喚が出たので。(笑)

これが大事。
自分がやりたいって求めるものが、何につけても何よりの進化をもたらすのですもの。

面白いことになってます。

たぶん、次の教室が待ち遠しくなってくださってるんじゃないかな、なんて、
こんなに仕合せでいいのかい? とふるえつつ、
困るのは、
講座が面白いと寄り道もしたくなっちゃうことで。

しかも新宿、燦然と輝く「末廣亭」の前なんかに出ちゃったひにゃあ、
どうしたって一杯ひっかけてきたくなっちまうんですぁ旦那。

この誘惑と戦うのが、っこわい!
なんたって呑んじゃったら、

夢ンなるといけねえから。







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2016年01月07日

こいつぁ春から

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1月は新春特別企画で、古典落語の『芝浜』を読むことにしました。

受講生さんからのリクエストがあって、私も今回はじめて聴いたのですが、
スゴク面白い噺ですね!
鮮やかなどんでん返しにびっくりぽんです。

これは、夫婦のキャラクターをどう作るかで、味わいがかなり変わるホン、
なんですね〜〜〜。

役者としては、ぜひとも自分オリジナルのキャラ獲得に、
ファイト燃やしたくなるところです。ニンマリ(笑)

短期集中講座ですので、『芝浜』は今月3週間だけのテキストです。
タイムテーブルはこんな塩梅で、1週ごとに段階を追っていきます。

第一週13日(水)15時〜18時
 15日(土)15時〜18時
第二週22日(金)19時〜22時
 23日(土)15時〜18時
第三週29日(金)19時〜22時
 30日(土)15時〜18時

駅地上出口から天国のように近い、新宿三丁目教室での講座です。

本読み教室では、数人でのダイアローグ(会話)でやります。
なので、ちょっとハードルは下がった感じかな。(笑)

いやいや、だって一人芝居ですものね〜落語って、しかも無対象(パントマイム)!
とても一朝一夕に出来るような件じゃございません。

知れば知るほど、噺家さんとは凄い人たちだなあと、つくづく思う今日このごろです。

…ここまで、噺の筋書きを記していないのにはワケがあります。
私が四の五の語るより、
名調子をお聴きになったほうが1000倍イイですものネ♪

ハイ、お楽しみください、三代目古今亭志ん朝師匠の名演、『芝浜』です。


人情噺って、いいですね〜。
私はいつもこの下げ(オチ)で、くっと涙がこみ上げてきます。

でもそれは、志ん朝さんだからなのかもしれない。
他の噺家さんだったらきっと、また全然別の気持ちになるんだと思います。

さてさて、どんな魚熊さんとおかみさんを演りたくなりましたか?
あたしだったらねぇ、、ふふふ。

今なら若干名の空きがございます。
初春から、ちょっとフレッシュな3週間を過ごされたい方は、
どうぞお気軽にお問合せください。

あー、あたしも浜いって釣竿でもたらしてみようかなー。
かすりもしなかったネ、年末ジャンボ♪ (号泣)






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